貫目改所の機能

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貫目改所は問屋場に隣接しているか、同一建物内にあるのがきまりである。品川宿では、貫目改所が設置される直前の正徳二年(一七一二)二月の江戸の大火で、北品川宿まで延焼して、問屋場も焼けたために、貫目改所は南品川宿の問屋場に設けられた。その後、北品川宿で問屋場の再建を願い出て、享保十七年(一七三二)に許され、それにつれて貫目改所も二ヵ所になった。

 文政五年(一八二二)に、道中奉行は、東海道・中山道の宿々の取締りを強化するために、貫目改所の拡張をした。その費用は南品川宿の改所が金七九両三分余、北品川宿の改所が金九四両二分余、ほかに一ヵ所へ三〇貫目掛けの秤を二挺ずつ置くことにして、増分の秤一挺代が金四両二分ずつであった。また文政二年に五%引きとなっていた貫目改所の手当も旧に復した。

 これら諸宿の貫目改所の建拡げのために、幕府は臨時費として金九二八両を支出し、年々の経常費として米四二石四斗八升と金二八二両余を増すことになった。この経常費のうちには、御普請役・評定所書役のうちから一年に二人ずつ、四年で八人として、一年におよそ半年分の旅費として米四二石余と金二四二両余が含まれているので、宿・助郷の監理も行きとどくようになった。

 なお、このほかに、諸大名の参勤交代のときに、取締りのために品川・板橋・千住・内藤新宿へ勘定方(勘定所の職名)を派遣し、正月から八月まで、四ヵ所で総延日数二〇五日として、一日の手当金平均一両として二〇五両、それへ差し添えて出張させる御普請役・評定所書役の手当として金六四両余を見積もっている(「道中方秘書」)。

 貫目改所の建物は、文政六年正月の大火で焼失し、北品川宿の問屋場と貫目改所とは廃止されて、南品川宿の一ヵ所になったが、そのときの建坪は三五坪二合五勺であった。天保十四年(一八四二)二月の火災で焼失後のものは三二坪半であった。その後も嘉永五年(一八五二)七月、慶応二年(一八六六)十二月の火災にも焼失し、慶応三年に再建築を願い出たときには三三坪の見積もりであった(『品川町史』上巻四八九ページ)。この改所の修繕費や水夫人足の賃銭などは、宿場の負担となっていた(資二三六号)。

 代官所から貫目改所に出役していた定詰役人は、宿内に役宅があり、はじめは借家であったが、天保三年(一八三二)に代官所から七〇両の下付を受けて、南品川宿にあった明家を買いうけて役宅にした(『品川町史』上巻五〇五ページ)。貫目改所へは代官所の出役役人のほか、宿方からは名主・年寄のうちから一人、定詰年寄一人・下役の者二人、合わせて四人ずつが毎日詰めており、重要な通行があるときには非番の者も出勤したのである。

 荷物の重量の制限は早くから行なわれていたが、使用者側からすれば、人馬の使用数を制限されているから、できるだけ多くの物を運ばせようとして、過貫目の荷物を出し、宿側では相手の権威におされて、不法と知りながらも、それを継ぎ立てていたのである。貫目改所の設置は、使用者の不法を抑止しようとしたのであるが、改所が設けられた正徳二年に、改所の者に提出させた証文の案文によれば、通過する荷物の全部の目方を改めていては、往還に支障を生ずるので、荷物を付けかえるときに、重い荷物があれば掛け改めることにしたものである(資一五九号)。

 しかし、朱印や証文(いずれも無賃)による御用旅行の者の荷物は、格別過貫目と思われる荷物だけを掛け改め、九貫九〇〇匁までは一人持、一〇貫から一〇貫九〇〇匁までは二人持とすること、大坂城・二条城など在番の大番士そのほか御用旅行の分は、朱印・証文がなくて賃払いの分でも、前同様にあつかうこととしているので、御用旅行のときは、よほどの過貫目でなければ改めないことになった(『五街道取締書物類寄』十九)。また幕府や御三家の茶壺なども、付添役人が貫目を改めることを拒絶し、貫目改所の者も手のつけようがないありさまであった(同上)。

 しかし、公家や宮・門跡方、その他の寺社の分は、朱印・証文の分でも、諸家(一般の大名等)旅行同様に、一人は五貫目持として、それを超過すれば歩合で賃銭を徴したので、六貫七〇〇匁であれば五人三分という計算が行なわれた。

 貫目改所では、乗物の改めもした。道中奉行所で、文政六年に、貫目改所出役の心得を規定したが、それによれば、乗物六人掛りとなっているが、そういう乗物は、諸家では手廻りの者を召しつれて担がせるので、宿人足は手代わりに雇う程度であるから、宿継にするのは山乗物か、それに准ずるものと考えてよく、山乗物は四人がかりの規定であるから、単に乗物と唱えても四人がかりでよい。もし格別に大ぶりか、手道具を多く入れて三〇貫目の長持にも劣らないほどであれば六人がかりとし、賃銭請取帳にその理由を記入すれば、先々の宿ではそれを目当てにすることができる、としている(『五街道取締書物類寄』十九)。

 文政五年(一八二二)に道中奉行が荷物人足がかりのことにつき老中へ伺いを立てた文中に、荷物は貫目を記した木札を付けて差立て、それをさらに貫目改所で改めるとき、たとえば長持が四五貫目あれば人足九人がかりの定めであるが、目方に応じて人足をかけては人足数が多くなり、かつ人馬の見込みも立たないので予め手配もできかねる。四五貫の荷物でも、宿人足の強勢の者は二、三人でも持送るが、在方虚弱の人足では、二〇貫目の四人持の長持を八人で持送るものもある。これは人足の強弱に任せ、旅人より論ずるわけではなく、賃銭は貫目次第に払い、強い人足は一人で二人分、三人分の賃銭を取り、弱い人足は一人で分けて取ることになっている。

 しかし旅人方では、賃銭だけの人数がかからなければ、賃銭を払った甲斐(かい)もないから、是非その人数をかからせようとする。これでは混雑のもとであるから、堂上その他諸侯へも通じておきたい。もっとも御用旅行の分はそれほどきびしくしないつもりである、とあり、老中の承認を得て通達している(「道中方秘書」第三条)。