貫目改所には、領主方の役人や代官所の手代などが出役して、宿役人とともに荷物の計量をしたが、前記のように、御用旅行者には過貫目のものも、一定限度までは容認していたので、十分な効果はあげられなかったように思えるが、その他の者に対しては、御三家の継荷物等もその制限を守らせ、過貫目の荷物は跡荷が着くまで改所に留めおいて、跡荷のうちにも過貫目とみえるものがあれば秤にかけて改め、過貫目の分は宰領の者へ申し談じて、荷を直させるか、増賃銭を払わせるようにした(『五街道取締書物』十九)。
参勤交代の大名は、この貫目を守ることに注意をしていた。天保十一年(一八四〇)に東海道を通って帰国した加賀の前田家では、「御発駕当日の人馬の荷物目方について、少しも不相当のことがないようにすること。下街道(中山道通り)は毎年のことであるから、板橋宿でも出役の者が見切で通してくれることもあるが、品川宿ではそのような取計らいはなく、御通行の日は御役人(幕府の)も多数出役して厳重に掛け改め、少しでも過貫目になれば増人馬になることである。もし過貫目で増人馬になれば、第一には外聞もよろしくなく、またかれこれして延滞混雑にも及ぶから、格別に僉議(せんぎ)をして貫目を減じ、規定よりは内輪になるように、末々まで申し渡す」ように命じ、家中の者の荷物にも一々木札を立てさせ、過貫目のものは木札にその旨を記させ、藩邸を出るときに目付足軽に改めさせ、木札のないものは門を通さないようにした(金沢市立図書館蔵「東海道御帰国触留」)。
しかし前田家のような大名ばかりではなく、文政三年(一八二〇)の「貫目御役所の儀につき申上候書付」によると、御三家の家中、堂上方・御使方の家来、美作津山の松平家、出雲松江の松平家の家中の荷物は、過貫目と断っても、問屋場へ来てはことさらに急いで、人馬とも荷物を下に置かず、駄賃帳の記入が遅いといって口々に言い立てるので、はなはだ混雑をして難渋するが、宿役人・帳付・人馬指の者も、身体の無事を第一にして、貫目改めもしないで継ぎ立てている。近ごろは萩の毛利家の荷物が過貫目であるから掛け合っても一向に聞き入れず、また二条・大坂の大番頭・大番衆も同様になり、無賃の増人馬が多く必要となって難儀至極である。
貫目改所の下役六人の者も、二年と勤める者はなく、風儀を見覚えないうちに休役を申し出し、跡役を命じても同様で、一人もなれた者がいないので、改め方が行きとどかず、不調法至極に存じている、と述べている(『品川町史』上巻四八三ページ)。武士の権威の前には宿役人はどうすることもできず、代官所より出役の手代なども身分が低いので、抑制することが困難であったのである。