品川宿は江戸と川崎宿の中間にあるが、五街道の起点である江戸日本橋の伝馬町は、他の宿とは構成や機能を異にしているので、品川・千住・板橋・内藤新宿(設置されないときは高井戸)の各宿の継立方は、他の宿と違う点があった。
江戸日本橋は大伝馬町・南伝馬町・小伝馬町の三伝馬町より成立しており、そのうち街道へ継立をするのは、大伝馬町と南伝馬町の両伝馬町で、小伝馬町は街道へかからない公用人馬、すなわち江戸府内と周辺の伝馬役を負担していた。したがって、江戸出口の四宿と関係があるのは両伝馬町であった。
伝馬町では問屋にあたるものを伝馬役といい、その町の名主を兼ねていた。大伝馬町では馬込勘解由(かげゆ)・佐久間善八、南伝馬町では吉沢主計・高野新右衛門・小宮善右衛門であった。このうち佐久間と吉沢とは途中で没落してしまった。
両伝馬町では継立業務を分担し、月の上の十五日は、大伝馬町は御朱印伝馬、南伝馬町は駄賃伝馬(御定賃銭のもの)を扱い、十六日から月末までは逆になって、大伝馬町は駄賃伝馬、南伝馬町は御朱印伝馬を扱うので、一宿に二つの問屋があるのに似ていたが、半月ずつ休番というのではなかった。
両伝馬町から品川・板橋・千住・高井戸(または内藤新宿)の各宿へ継ぎ送るが、それらの宿から両伝馬町へ付け送ることはない。したがって、四宿から直接に宛先へ送る。また街道から街道へ付け通す場合も伝馬町は通さないで、品川から板橋なり千住なりへ継ぎ送り、賃銭は江戸持込みの賃銭を合わせた分を払う(「道中方秘書」)。
両伝馬町では、朱印・証文の人馬と駄賃馬とは勤めるが、賃人足は明暦元年(一六五五)に免除されたので、それ以後は、人足は御用の無賃人足を勤めるだけであった。
両伝馬町で出す人馬には定数がない。両伝馬町は四宿へ継ぎ立て、しかも助郷がなかったから、人馬数の限度がなかったのである。そのために伝馬町に対しては種々の保護策が講ぜられており、江戸府内での駄賃稼ぎが三伝馬町の馬持の特権とされていたのもその一つであった。江戸近辺の村の者が江戸府内で駄賃稼ぎをしようとすれば、稼ぎ馬一匹について一年に一疋、すなわち一日だけ伝馬町へ助馬を出す義務があった。これは伝馬町の訴願によって承応二年(一六五三)から始まったもので、助馬を出す馬は鞍判を受けてその証拠とした。その後馬数が減少したので、万治三年(一六六〇)からは一年に三疋ずつ出すように改められた。
しかし府内の馬数は次第に減少したので、享保十四年(一七二九)には、鞍判を受けないで府内で駄賃稼ぎをすることを禁じ、諸方から物資を運びこんで来る馬が、帰りに荷物をつけて帰ることも禁じた。ところが、これに対して、品川・板橋・千住三宿(内藤新宿は休宿中)は道中奉行所へ歎願書を出した。品川宿の問屋権左衛門・同吉左衛門・年寄文蔵・名主利兵衛・同兵三郎が出した願書はつぎのごとくであった。
品川宿の御伝馬役は古来鞍判を受けない定めで、馬一〇〇疋で、御朱印・御証文の荷物や上り下りの大名旗本方は無賃、その外の諸荷物は上下とも御定賃銭で、風雨嵐にもかまわず前後へ付け送りをしてきた。外宿には一定の道程(みちのり)があり、途中で荷物の交換もできるが、品川宿は江戸付込みの場所であるから道程も一定せず、本所四ッ目・五ッ目・浅草・下谷・三輪(みのわ)辺・駒込・巣鴨・小日向(こびなた)筋へも右の御定賃銭で付送っている。日の短いころは付込時刻から二日の後になり、沓(くつ)・草鞋(わらじ)の費用も出ず、失費がかかるのに勤めているのである。
もし助馬三疋を出して鞍判を受けて、府内の稼ぎが自由になれば、馬持どもは付込み馬はもとより、伝馬役の順番に間のある者まで、江戸を徘徊して駄賃稼ぎにかかり、日中に立帰ることもできず、往来継立の支障になるから、今までどおり鞍判を受けないようにしたい、というのである。板橋・千住両宿も相似た願書を出し、道中奉行所ではその願意を入れて、三宿の馬は鞍判は無用であるとした(『御伝馬方旧記』四)。これは府内の稼ぎ馬と宿馬の相違点を示すものである。
品川宿から川崎宿へ継ぎ立てる人馬は、伝馬町から来るもののほかに、板橋・千住等の他街道から来るもの、府内から付出しの人馬などがあったわけである。なお江戸で雇った馬は泊り宿まで持通して、品川宿では継ぎ立てない仕来りであったから、大名が出す小荷駄(こにだ)と人足だけを継ぎ立てた。これは板橋宿などが、すべて先触どおり継ぎ立てるのとは異なっていた(「道中方秘書」)。
江戸から出発する公用旅行者は、朱印状または証文を日本橋の当番の伝馬役所に示し、通常は自分の日程を記した先触(さきぶれ)を提出するから、伝馬役所では写し取って、宿々へ継送する。これによって各宿ではいつごろにどれだけの人馬が必要であるか、また昼休・小休・宿泊者の数を知ることができて、人馬の手配や旅籠屋の準備を整える。また川崎宿から来る下りの旅人についても同様であるが、先述のように伝馬町へは継がないで、それぞれの屋敷まで持運ぶのであるから、遠距離に屋敷がある場合には、宿・助郷の人馬は負担が重かったのである。