大名は江戸の初期においては、旅行の制限もなく、通路も自由であったが、寛永十二年(一六三五)の武家諸法度において参勤交代を義務付け、また領外への出兵には幕府の許可を要することに改めてからは、大名は幕府の役職にあるものを除いては、参勤交代のとき以外には、領外に出ることができなくなった。さらに参勤交代の通路も次第に限定されて、文政四年(一八二一)の調べによると、東海道を通行する大名はつぎのとおりである(『五街道取締書物類寄』十二)。
[「三月御暇」]高六拾壱万石余 尾州名古屋 屋張殿
[同]高七拾七万石余 薩州鹿児嶋 松平豊後守(島津)
[同]高五拾五万石余 紀州和歌山 紀伊殿
[二月]高五拾弐万石 筑前福岡 松平備前守(黒田)
[四月]高五拾四万石 肥後熊本 細川越中守
[四月]高三拾六万石余 長州萩 松平大膳大夫(毛利)
[四月]高四拾弐万石余 芸州広嶋 松平安芸守(浅野)
[五月]三拾五万石 江州彦根 井伊掃部頭
「掃部頭儀は中山道を通行することもある」
[二月]高三拾五万石余 肥前佐賀 松平肥前守(鍋島)
[四月]高三拾弐万石余 因州鳥取 松平因幡守(池田)
[同]高三拾弐万石 越前福井 松平越前守
「中山道通行は掃部頭同断」
[同]高三拾弐万石余 勢州津 藤堂和泉守
[同]高三拾壱万石余 備前岡山 松平上総介(池田)
[同]高弐拾五万石余 阿州徳嶋 松平阿波守(蜂須賀)
[同]高弐拾四万石余 土州高知 松平土佐守(山内)
[四月]高弐拾壱万石 筑後久留米 有馬玄蕃頭
[同]高拾八万石余 雲州松江 松平出羽守
[六月]高拾五万石余 和州郡山 松平甲斐守(柳沢)
[同]高拾五万石 予州松川 松平隠岐守(久松)
[同]高拾五万石 豊前小倉 小笠原大膳大夫
[同]高拾五万石 播州姫路 酒井雅楽頭
[五月]高拾弐万石 讃州高松 松平讃岐守
高拾壱万五千石 相州小田原 大久保加賀守
[四月]高拾壱万石 筑後柳河 立花左近将監
[二月]高拾万石以上之格 対州府中 宗対馬守
[六月]高拾万石 勢州桑名 松平民部大輔
「文政六未年武州忍へ所替」
[五月]高拾万石 豊前中津 奥平大膳大夫
[四月]高拾万石 作州津山 松平越後守
[六月]高拾万石 備後福山 阿部備中守
[同]高拾万石 濃州大垣 戸田釆女正
「中山道通行は井伊掃部頭同断」
[四月]高五万石余 肥前蓮池 鍋嶋摂津守
[同]高五万石余 勢州久居 藤堂佐渡守
[同]高五万石余 讃州丸亀 京極長門守
[同]高五万石余 播州竜野 脇坂中務大輔
[六月]高五万石余 泉州岸和田 岡部美濃守
[四月]高五万石余 但州出石 仙石美濃守
[同]高五万石余 日向飫肥 伊東彦松
高五万石 丹波笹山 青山下野守
[六月]高五万石 備中松山 板倉阿波守
[同]高五万石 丹波亀山 松平英之助
[四月]高五万石余 豊後臼杵 稲葉辰次郎
[六月]高五万石余 遠州掛川 太田摂津守
[四月]高五万石 筑前秋月 黒田甲斐守
[同]高五万石 長州府中 毛利甲斐守
[六月]高五万石 三州岡崎 本多中務大輔
[同]高五万石 越前丸岡 有馬左兵衛佐
「中山道通行は井伊掃部頭同断」
[六月]高拾万石余 城州淀 稲葉対馬守
[四月]高拾万石 予州宇和嶋 伊達遠江守
[同]高七万石余 肥前小城 鍋嶋紀伊守
[同]高七万石余 豊後岡 中川修理大夫
高七万石余 丹後宮津 松平伯耆守(本庄)
[六月]高七万石 三州吉田 松平伊豆守(大河内)
[同]高七万石 肥前嶋原 松平主殿頭
[同]高七万石 日向延岡 内藤備後守
高六万石余 石州浜田 松平周防守
[四月]高六万石 播州明石 松平左近将監
高六(七)万石 遠州浜松 水野左近将監
[四月]高六万石 勢州亀山 石川主殿頭
[同]高六万石余 肥前平戸 松浦肥前守
[同]高六万石 予州大洲 加藤遠江守
高六万石 三州西尾 松平和泉守
[二月]高六万石 肥前唐津 小笠原主殿頭
[六月]高六万石 江州膳所 本多下総守
[六月]高四万石余 石州津和野 亀井大隅守
[六月]高四万石 摂州尼ケ崎 松平遠江守(桜井)
高四万石 駿州沼津 水野出羽守
[六月]高四万石余 濃州八幡 青山石之助
「中山道通行は井伊掃部頭同断」
[同]高四万石 駿州田中 本多豊前守
[同]高三万石余 摂州高槻 永井飛騨守
[四月]高三万石余 摂州三田 九鬼和泉守
[六月]高三万石余 丹後田辺 牧野豊前守
[同]高三万石余 予州今治 松平壱岐守(久松)
[定府]高三万石 同 西条 松平左京大夫
[同]高三万石余 肥後熊本新田 細川釆女正
[四月]高三万石 雲州広瀬 松平佐渡守
[同]高三万石 予州吉田 伊達紀伊守
[四月]高三万石 肥後宇土 細川中務大輔
[定府]高三万石 芸州広嶋内証分 松平近江守(浅野)
[四月]高三万石 防州徳山 毛利大和守
[四月]高三万石 因州新田 松平摂津守(池田)
[六月]高三万石余 豊後杵築 松平志摩守
[同]高三万石余 丹後福知山 朽木隠岐守
[同]高三万石余 遠州横須賀 西尾隠岐守
[同]高三万石 志州鳥羽 稲垣〓之丞
[四月]高弐万石余 日向佐土原 嶋津筑後守
[六月]高弐万石余 豊後府内 松平左衛門尉(大給)
[六月]高弐万石余 江州水口 加藤孫太郎
[四月]高弐万石余 日向高鍋 秋月筑前守
[二月]高弐万石余 肥前大村 大村上総介
高弐万石余 和州高取 植村駿河守
[四月]高弐万石余 丹波園部 小出信濃守
[同]高弐万石余 豊後日出 木下大和守
[同]高弐万石余 備中芦(足)守 木下肥後守
[六月]高弐万石余 作州勝山 三浦備後守
[四月]高弐万石余 肥後人吉 相良近江守
[六月]高弐万石 勢州長嶋 増山河内守
[四月]高弐万石 播州赤穂 森越中守
[同]高弐万石 丹波柏原 織田出雲守
[同]高弐万石 江州大溝 分部米吉
「中山道通行は井伊掃部頭同断」
[同]高弐万石 豊後佐伯 毛利出雲守
[同]高弐万石余 備前新田 池田勇吉
[同]高弐万石 肥前鹿嶋 鍋嶋学四郎
[四月]高弐万石 因州新田 松平刑部
[六月]高弐万石余 三州刈谷 土井淡路守
[同]高弐万石 同国挙母 内藤山城守
[四月]高弐万石 備中庭瀬 板倉越中守
[同]高壱万石余 備前新田 池田山城守
[六月]高壱万石余 勢州神戸 本多伊予守
高壱万石余 相州萩野山中 大久保出雲守
高壱万石余 江州堅田 堀田摂津守
高壱万石余 江州宮川 堀田豊前守
[六月]高壱万石余 三州奥殿 松平縫殿頭(大給)
[四月]高壱万石余 但州豊岡 京極飛騨守
高壱万石余 丹後峯山 京極周防守
[四月]高壱万石余 丹波綾部 九鬼河内守
[定府]高壱万石余 江州山上 稲垣安芸守
[四月]高壱万石余 播州三ケ月 森芝次郎
[同]高壱万石余 備中新見 関備前守
[六月]高壱万石余 泉州伯太 渡辺越中守
[四月]高壱万石余 豊後森 久留嶋伊予守
[二月]高壱万石余 肥前五嶋 五嶋大和守
[四月]高壱万石余 勢州薦野 土方大和守
[六月]高壱万石余 三州田原 三宅対馬守
[八月]高壱万石余 武州金沢 米倉丹後守
[四月]高壱万石余 和州小泉 片桐石見守
[同]高壱万石余 江州仁聖寺 市橋主殿
「中山道通行は井伊掃部頭同断」
[定府]高壱万石 雲州母里 松平駿河守
[四月]高壱万石 長州清末 毛利讃岐守
[六月]高壱万石 播州山崎 本多肥後守
高壱万石 豊前小倉新田 小笠原備後守
[六月]高壱万石 播州安志 小笠原信濃守
[定府]高壱万石 同三艸 丹羽長門守
[同]高壱万石 濃州大垣新田 戸田淡路守
[同]高壱万石 同 高留 本庄近江守
「中山道通行は井伊掃部頭同断」
[六月]高壱万石 駿州小島 松平丹後守(滝脇)
[四月]高壱万石 肥前平戸新田 松浦大和守
[同]高壱万石 讃州多度津 京極壱岐守
[同]高壱万石余 備中岡田 伊東播磨守
[同]高壱万石余 大洲内分ケ予州新谷 加藤山城守
[同]高壱万石 和州芝村 織田左衛門佐
[同]高壱万石 和州柳本 織田大和守
[定府]高壱万石 三州西大平 大岡越前守
[同]高壱万石 河州丹南 高木主水正
[四月]高壱万石 播州林田 建部内匠頭
[四月]高壱万石 河州狭山 北条相摸守
[同]高壱万石 摂州麻田 青木民部少輔
[同]高壱万石余 丹波山家 谷鷹之助
[同]高壱万石 播州小野 一柳対馬守
[同]高壱万石 予州小松 一柳美濃守
[定府]高壱万石 和州柳生 柳生英次郎
[定府]高壱万石 江州三上 遠藤但馬守
「中山道通行は井伊掃部頭同断」
[同]高壱万石 和州新庄 永井信濃守
高壱万石 遠州相良 田沼玄蕃頭
大名総数二六二名(定府なども含む)、二、一五一万石余のうち、東海道を通る者は一五三名(五八%)、石高にして一、四七一万石(六八%)に及び、中山道の四一名(ほかに東海道共通八名)の三〇七万石(一四%)余、日光道中・奥州道中の四一人で二七五万石(一三%)余、甲州道中の二名六万石、水戸・佐倉道中の二四人で九〇万石、岩槻道の一名で二万石に比べれば、圧倒的に多い。
さらに、毎年下向する勅使・院使、あるいは上洛する将軍名代の大名・高家、その他の公用旅行者を加えれば、東海道各宿の負担がいかに重いものであったかが明瞭である。
なお東海道経由の参勤交代の大名の帰国時期は、
二月―六名 三月―三名 四月―七一名 五月―三名 六月―四一名 八月―一名となっていて、四月から六月の農繁期に多く、助郷人馬にはとくに重い負担であった。
大名の参勤交代の通路は、この規定に拘束され、他の街道を通ることは困難であった。すでに正徳四年(一七一四)に、東海道通行の者が中山道を通ることを禁じ、もし通行するときには、御用番の老中に理由を述べてその指図にまかせるように触が出ていたが(『寛保御触書集成』)、荷物や家中の通行については特に規定していなかったから、中山道や甲州道中を通行するものがあったので、寛政五年(一七九三)には、中山道や甲州道中は農事をもっぱらにしているのに、かえって通行が多く助郷村まで困窮に及ぶのは、結局、東海道の宿々の取計らいがよくないためであろうから、として、東海道の宿々に対して不法のことがないように申し渡し、大名に対しては中山道や甲州道中の通行は、道中奉行へ達してならば格別であるが、荷物や家中の者も、できるだけ東海道を通行するように通達している(「委細書附録」)。
幕府では多くの場合、東海道に比べて他の街道は人馬の用意も少ないという理由で、東海道を通るべき者が他の街道を通ることを制している。