参勤交代のときに大名が召し連れる従者については、元和元年(一六一五)の武家諸法度に、一〇〇万石以下二〇万石以上も二〇騎を超えてはならず、一〇万石以下はこれに准ずるように命じているが、これは馬上の者で、足軽・中間などは別である。しかし、のちには大名が連れていく江戸詰の人数が増加し、それが財政難の原因にもなり、国許の留守の人数が減ずることになったので、幕府は諸大名に対して正徳二年(一七一二)に、参勤の時に召し連れる人数は分限に応ずるように命じ、さらに享保三年(一七一八)に、二〇万石以上の者に対して、道中召し連れる人数が大勢ではこみあうことにもなるので、欠くことのできない者は、大名とは別に順次江戸へ下すように通達した。
しかし、そのころから幕府が大名に、江戸の番所や火の番等を命ずることが多くなったので、大名は相応の人数を江戸に置く必要があり、したがって従者も増加した。そこで享保六年に、およその基準を定めた(『御触書寛保集成』一六)。
二〇万石以上
馬上 一五騎より二〇騎 足軽 一二、三〇人 中間人足 二五〇人より三〇〇人
一〇万石
馬上 七騎 足軽 八〇人 中間人足 一四、五〇人
五万石
馬上 七騎 足軽 六〇人 中間人足 一〇〇人
一万石
馬上 三、四騎 足軽 二〇人 中間人足 三〇人
その他はこれに准ずることとした。なお大大名には万石以上の家臣もいて、それぞれに従者を伴うので、大名の通行と日を少し離して通行することもあり、宿場は何日も連続して混雑をした。問屋・本陣・旅籠屋とも、その期間が最も多忙のときであった。
品川宿での人馬継立数を明細に記したものは残っていないが、近くの保土ケ谷宿の例でみると、天保十三年(一八四二)に通行した鳥取の池田氏(三二万石)は総勢六二九人(徒以上 九七 足軽以下 五三二)で、使用人足四七人・馬五五疋、鹿児島の島津氏(七七万石)は総勢四五二人(徒以上 一一〇 足軽以下 三四二)で、使用人足三五二人・馬五〇疋、肥前小城の鍋島氏(七万石)は総勢九八人(徒以上 三二 足軽以下 六六)で、使用人足四七人・馬二七疋であった。従者の数や使用人馬数はかならずしも石高に比例してはいない。使用人足の多いのは、勅使・院使その他で江戸へ下った公家や、尾張・紀伊両家であった。
年間を通じての品川宿での上下人馬の継立数は、
文政二年(一八一九) 六二、七〇四人 二二、三九九疋
慶応元年(一八六五) 二四、九四八人 二四、一八一疋
で、慶応元年に減じているのは、文久三年の参勤交代制の改革や、大名妻子の帰国を許したことと関係があるのかも知れない(大熊喜邦『東海道における宿駅と其の本陣の研究』一七八ページ)。