将軍の上洛は、寛永十一年(一六三四)に三代家光が三〇万の大兵を率いて入京して以来なかったが、文久三年(一八六三)に至って、十四代家茂の上洛があった。朝廷の権力の回復にともない、落日の感のある幕府の勢威を復旧しようとしたもので、同年二月十三日卯上刻(午前五時ごろ)に江戸城を発し、品川東海寺で休憩、川崎に宿泊したが、随兵わずか三、〇〇〇人であった。この帰りは大坂から海路をとった。
その後、慶応元年(一八六五)五月に、第二回の長州征伐のために、家茂はまた陸路を西上した。このときには十六日の四っ半(午前十一時)ごろ江戸城を出て、乗馬で品川の東海寺の御成御門で下馬、昼休をし、弁当をたべ、また東海寺住持は御目見(おめみえ)をしている。家茂は庭前のお宮へ参拝し、御成門外で馬に乗って大森へ向かった。老中・若年寄以下が供奉して、厳重な行装であったが、両度とも宿駅の疲弊を考えて、できるだけ簡素にさせた。しかし品川宿の詳細な記録は残っていない。