御状箱と御用物

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宿駅の任務の一つは通信であった。通信として最も普通の方法は飛脚であった。飛脚は継走するものと、一人が目的地まで行くものとがある。通常は宿駅の人馬を用いて継ぎ送る方法で、特殊な場合にだけ後者が行なわれた。

 近世の飛脚制度では、施設別にいえば幕府公用の継(つぎ)飛脚・各大名の大名飛脚・庶民にも利用できる町飛脚の三種があった。継飛脚の起原について、江戸伝馬町では、天正十八年(一五九〇)に徳川家康が江戸入府のとき以来で、そのときから継飛脚給米として、豊島郡高田村の年貢米のうちから一二石六斗を与えられたと伝えている(『御伝馬方旧記』九)。初めから継飛脚といっていたかどうか不明であるが、領内の通信連絡のために飛脚制度を設けるのはふしぎではないし、それが継ぎ立てる方法であったのも当然である。名称はともかくとして、早くから継飛脚制度は実施されたであろう。しかし家康が関東二四〇万石の領域を支配しているときには、それほど完備したものではなかったに違いない。重要性を持ち、制度も整ったのは、関ケ原の役が終わって、家康が全国支配者の位地に立ち、慶長六年(一六〇一)以来宿駅伝馬の制度を設けてからである。継飛脚制度は、宿駅の整備があって初めて有効に利用されるものであるからである。


第167図 継飛脚(広重の東海道五十三次)
右手に提灯のあとから飛脚が走っている。

 継飛脚を利用できるのは、老中・京都所司代・大坂城代・駿府城代・道中奉行などである。その通路はほとんど東海道で、日光奉行や佐渡奉行へ出されるものもあるが、他の街道では、とくに施設はなく、通常の宿の人馬を利用した。老中が出す公用書状のなかには、老中奉書のごとき、将軍の命を受けたものもあるから、最も権威のあるものであった。

 公用文書は、革籠(かわご)などに入れてあって、これを御状箱という。それには、江戸から出すときには老中の証文がつく。たとえば延享五年(=寛延元年・一七四八)三月に、老中松平右近将監(武元)から大坂城代酒井讃岐守(忠用)へ状箱を送ったときの証文はつぎのとおりである(『御伝馬方旧記』十四)。

此状箱従江戸大坂迄之道中ニ而、酒井讃岐守え来ル十二日酉之刻(午後六時ごろ)迄急度可相届者也、

  辰三月十日    右近印

              右

               宿中

 御状箱は油紙などに包んで、ひもをかけるのが普通であるが、証文も離れないように一つにしてある。御状箱だけのときは、御徒(おかち)目付が日本橋の伝馬役所へ持参をするが、御状箱とともに御用物が送られることも多いので、その場合には人足を指定の場所へ差し向ける。宝暦四年(一七五四)十一月に、幕府から京都御所へ御祝儀餅を送ったときには、人足四二〇人を大伝馬町と南伝馬町で半分ずつ出し、当番の大伝馬町名主の馬込勘解由(かげゆ)が裏付上下(かみしも)を着て(次には麻上下にするようにいわれたが)月行事・定使・世話役など数名と人足をつれて、竜(たつ)の口の畳蔵前に行き、七三箇の荷物を受取り、さらに油紙包の御状箱と老中証文を受取った。その前に伝馬町では先触を出して、先々の宿に人足の用意をさせておく。

  御用物御荷物 人足弐百八拾九人程

右は明後二日五ッ時、御用御荷物京都迄被遣候、依田和泉守(町奉行)様ゟ被仰付候間、此旨相心得、人足用意相待可申候、尤御荷物固(箇)数等相知候はヽ、又〻相触可申候得共、右之人足令用意相待可申候、此趣先〻相触、無滞様可致候、以上、

 宝暦四年戌十一月廿九日                                 馬込勘解由

    従品川京都迄宿次

        問屋衆中

 

 連れて行った人足が指定より多いのは、先例などによって、命じられた数では不足とみたのである。荷物を受取ると、老中証文が出る。

此状箱并荷物七十三固(箇)、従江戸京都道中入念、差急ニ不及、酒井讃岐守所(京都所司代)え急度可相届者也、

 戌十二月二日          相摸(老中堀田正亮)印

                      右宿中

 これに対して、伝馬役人は、御状箱一、御荷物七三、老中の宿次証文一通に対する受取書を出す。印形は御状箱受取のきまった判をおす。また受取書には、その時刻を記入しておく。また先々の宿へ先触を出す。

一、御証文御箱 七拾三固

一、御状箱   壱

右は京都為御用、唯今江戸被御出し候ニ付、如斯堀田相摸守様宿次御証文ニ而被仰付候、一昨日相触候通、宿〻人足無滞令用意、相待可申候、尤此趣先〻相触、無滞様ニ可致候、以上、

   宝暦四年戌十二月二日                                馬込勘解由

      従品川京都迄宿次

            問屋衆中

(『御伝馬方旧記』十四)

 

 こうして品川宿をはじめ各宿では、人足を用意して荷物の着くのを待つ。しかし御状箱だけの場合は急を要することが多い。御状箱と老中証文を御徒目付が伝馬役所に持参すると、証文に墨付や汚れがあるかないかを調べ、もし汚点があれば受取書にそのことを記入しておかなければならず、途中で異状を発見すれば直ぐに報告をしなければならなかった。宝暦九年(一七五九)に老中から京都町奉行に送った御状箱と御用物四個のうち、一個の荷物の枠(わく)のほぞが抜けていたのを品川宿で発見して、伝馬町に報告したが、道中奉行所へ訴え出なかったため、伝馬役の馬込勘解由は奉行所から過料五貫文の罰を受けている(『御伝馬方旧記』十四)。

 また急用の御状箱が遅延すると、宿々の受渡時刻を調べて罰するので、宿々では御状箱はもっとも気遣いをするものであった。先の延享五年三月の老中松平右近将監より、大坂城代へ宛てた書状も、翌々日の夕刻までに着くべきものが、その翌日の昼ごろに着いたので調べられている。

 いっしょに送った御状箱と御用物が別々になるようなことはなおよくない。貞享三年(一六八六)に、京都所司代土屋相摸守(政直)が、宿次証文を添えて状箱と京菜五荷を老中へ送ったところ、品川町から宿次証文と状箱だけを届け、しばらくしてから京菜が着いた。調べてみると程ケ谷(保土ヶ谷)町で別々になったのであるが、程ケ谷の帳付が戸塚町へ罪をかぶせようと画策したことが露顕して、帳付は関八州追放の上、田畑・家・諸道具とも闕所(没収)となり、問屋は病気中で知らなかったが、平素の仕方が悪いというので、程ケ谷町二〇里四方追放の上、田畑・家は闕所にされたことがある(資一五五号)。まことにきびしいものであった。

 川留で御状箱が遅れることがあっても、いちいちその報告をしなければならない。品川宿では川崎宿との間に六郷川(多摩川)があるために、川留にあうこともあり、川明になって継立を終わると同時に報告した。文政五年(一八二二)に、目付から浦賀奉行所へ出した御状箱が、六郷川の満水で一日おくれたときに、宿からは道中奉行所へ、名主からは代官所へ届けた例がある。

   乍恐以書付申上

一、午五月十三日御目附従大久保加賀守様、至相州浦賀小笠原弾正様え被遣候油紙包御状箱壱ツ、同日申中刻(午後四時ごろ)大伝馬町ゟ請取之、即刻御継立仕候処、六郷川満水に而同日辰上刻(午後七時ごろ)ゟ人馬留ニ付、無是非御止宿、今十四日未明ゟ瀬踏為致、漸く巳下刻(午前十一時過)御渡舟仕候、尤浦賀小笠原弾正様えも其段御添書仕、御継立仕候ニ付、乍恐此段御届奉申上候、以上、

                                     品川宿

   午五月十四日                              御状箱御継所 利田吉左衛門

   道中御奉行所様

 右之段道中御奉行所様え御届奉申上候間、其段御届奉申上候、以上、

                                           品川宿

                                             名主 吉左衛門

    大貫次右衛門様 御役所

(『品川町史』中巻二ページ)

 御状箱を、御止宿・御渡舟などと敬語を使っているのをみても、いかに大事に扱ったかが知られる。