御状箱の時刻

710 ~ 713

御状箱がどのくらいの時間で目的地に達するかは、道路の状況によっても変わるが、およその目途がなければならない。しかし道中奉行所で一定することもできず、伝馬町からの報告によって、実情を知る程度であった。元禄九年(一六九六)および宝永四年(一七〇七)に江戸の伝馬役の者が書上げたところは次のとおりである。

 江戸―京都  一二〇里  三二―三三時  急二九―三〇時

 江戸―大坂  一三〇里  三六―三七時  急三二―三三時

 江戸―駿府   四二里  一二―一三時  急   一一時

 江戸―日光   三六里     九時   急    八時

(『御伝馬方旧記』六)

 ところが、元禄十三年(一七〇〇)に町奉行保田越前守へ出した覚書で示した実例によると、京都から江戸まで普通で四五時、急行で四一時、無剋という最急使で二八時から三〇時、大坂から江戸までは通常便で四八時としていて(『御伝馬方旧記』六)、若干の差はある。

 この一時は今の二時間であるから、無剋とすれば、京都・江戸間が今の五六時間から六〇時間で継走することになり、二里(八キロ弱)を一時間足らずで行くことになるから、非常な速さである。これは軽装しているのではなく、御状箱や証文を挾箱(はさみばこ)に入れて疾走し、宿ごとに受取り時刻を確かめて授受する。今日のように時計はないから、日の傾き具合などを見て、未(ひつじ)の上刻とか申(さる)の下刻とする。御状箱をかついできた人足と、宿役人と時刻の判断が合致しないで、紛争になった例も多い。また昼夜兼行で、山坂悪路も行かなければならず、渡船や川越人足にも頼る必要がある。それらを考えると、強健な人足を用意しておかなければならなかった理由がわかる。

 先の延享五年の老中の御状箱は三月十日に江戸を出して、十二日の夕刻に大坂に到着することを指定している。もし十日の午前十時ごろに出したとすれば、今の時間で五六時間であるから、一時間に九キロである。延着したといっても、今の時間で七四時間であるから、一時間に七キロ近い速さである。

 それに持って走る人足は一人ではない。宝暦十年(一七六〇)に伝馬町と品川宿とで、御状箱の受取時刻について争いがおきたときの例でみると、大伝馬町から六人の人足が駈けて行き、あとから二人が人足の衣類を持って行っている。そして品川宿で申(さる)中刻過(午後四時ごろ)の受取書を出そうとしたとき、大伝馬町の人足は申上刻(三時ごろ)と主張し、ついに四人はそのまま川崎宿へ持送り、二人は報告のために引返している(『御伝馬方旧記』十四)。かれらが裸体で、威勢よく駈けて行く姿が想像できる。

 かれらは道々掛け声をかけ、通行人をそばへよせつけない。大伝馬町の者にいわせれば、御進献物などを扱うので、人足も忌服(きぶく)などを改めて出ているから、けがらわしい者を近づけないためであるというが、御用の権威をかりて横柄な振舞をした。そのために江戸の市民などが石を投げつけ、あるいは帰途に打擲にあうこともあった(『御伝馬方旧記』七)。

 安永五年(一七七六)正月に、南品川宿の御状箱持夫の与市・甚八は、持送りの途中酒を飲んで、板倉佐渡守の供廻りの中へ割込んで、押えの者を突倒すなどの乱暴を働いたために道中稼ぎ差留め、中追放の刑に処せられた。また両人は長八と庄兵衛が病気のために代わりに出たものであるが、長八と庄兵衛は不束(ふつつか)者を出した罪で過料三貫文ずつ、名主利兵衛は申付方が等閑であるというので過料一五貫文、取賄人太兵衛は同じく五貫文に処せられた(『品川町史』中巻一三ページ)。

 文化十四年(一八一七)には、川崎宿の人足が御状箱の封印を切って逃げたが、取押えられて、引廻しの上、川崎宿で獄門になった(同上一四ページ)。こうした事件はしばしばあったのである。


第168図 急飛脚の図(駅逓志稿)
右が通常の継飛脚で,状箱をかついでいるが,左は青竹に手紙をはさんでいる。これは特殊なものであろう。