品川宿では、江戸の伝馬町より継ぎ立ててくる御状箱や御用物は川崎宿へ継ぎ立て、川崎宿より来た御状箱・御用物は宛先人の屋敷へ送る。その事務を扱うところを御状箱御継所という。その起原は不明であるが、初めは問屋場で扱っていたものが、分離したものであろう。
天保十四年(一八四三)の「宿村明細書上」(『品川町史』中巻四ページ)によれば、御状箱御継所は南品川宿と北品川宿と二ヵ所あり、半月交代で事務をとり、それを扱う責任者は南北両宿の名主二名であった。御状箱御継所がまた職名ともなり、享保年中に稲生下野守(正武)が道中奉行の時代に苗字を許された。先の文政五年の届書に、御状箱御継所としては利田吉左衛門と記し、名主としては苗字を記していないのはそのためである。
ここの実務をとるのは書役で、両所に一名ずついる。給与をもらって勤めるから、書役請状を出す。御継所兼地主書役という名目であるから、名主の職務についても関係している。万延元年(一八六〇)に抱えられた要蔵の請状(資一八二号)から、御継所に関するものを示すと次のとおりである。
一、御状箱の取扱いは大切にし、御継立のときには御証文に墨付や汚れがないかを篤と拝見し、御用物は破損の有無を念入りに改めて、持夫人足へ渡し、指定の時刻どおりに継ぎ立て、請取書の時刻付けを見届ける。下り方(江戸行き)は、日付指定の御状箱が川支等で延着したときには、その断わり書と道中奉行所への届け書の差出し方を、すべて仕来りどおりに、疎略なく行なう。
一、宿内より取立てた諸入用は納方帳へ明細に記入し、請取押切(おしきり)印を請ける。たとえ定式のものでも、手形をいただいて御指図どおり支払い、御継所ならびに地方役場の入用をできるだけ倹約するように心がける。
この要蔵は府内の四谷塩町の者であるが、宿内の者が勤めることもあり、請状の形式は何年間も同一であった(『品川町史』中巻八ページ)。また定使(小使)が一名ずついて、書状の伝達などの仕事をする。これらはいずれも給与をもらっている。天保三年(一八三二)の南品川宿の「宿賄諸入用勘定帳」(資二三六号)によれば、
金七両と銀二五匁 御状箱御継所兼名主一人給料
金六両一朱と銭一三八文 同所書役一人給料
金四両一分と銭五五〇文 同所定使一人給料
とある。この年は閏月があったので十三ヵ月分の給料である。天保十一年のは、平年であるため、御状箱御継所兼名主が七両、書役が六両、定使が四両となっている(資二三七号)。御継所の経費を、十一年のもので示すと、次のとおりである(同上)。
金一朱
銀二七匁八分 御状箱御継所で年中使用する筆墨紙・蝋燭・水油・炭代
銭六〇貫四七〇文
金一両二朱
銀二〇匁 継立御用筋で老中または道中奉行所へ出るための費用
銭三貫六六〇文
金二両一分一朱 文庫・法被(はっぴ)・風呂敷・挑灯・その外小買物の費用
銭七貫七七六文
金一両三分三朱 同所破損修復費用
銭七〇五文
金二朱 例年御状箱持夫の正五九月の日待修行入用、新年の初御状箱が到着のとき、大伝馬町と川崎宿の人足どもへ出す食事料
銭五貫六二四文
この分は年によって変動するのは当然であるが、項目に変動がないので、それほどの差はない。
御状箱を継ぎ立てる者、すなわち継飛脚を勤める者は、宿立人足のうちからあてたのが始めであるが、前述したように特別に強壮の者でなければ勤まらないから、特定の者がその役にあたり、やがてはそれを専門にすることになった。その始まりは不明で、史料は十八世紀半ばすぎになってからのものが残っている。しかし形式的には、宿立人足一〇〇人のうち一一人が御状箱持夫にあてられ、南品川宿で八人半、北品川宿で二人半を出すことになっていて、その給金を負担したのである。
天保三年の例でみると、一人につき金三両一分と銀二匁一分六厘であるが、この年は閏月があるから一三ヵ月分である。なお天保一二年の「宿賄諸入用勘定帳」(資二三八号)によると、御状箱持夫給金のうち、金二一両と銀三七六匁二分七厘は歩行役屋敷の百姓から直接に渡すので、宿賄元帳には立払がない、と記しているので、この外に一人二両ぐらいの給金があったことになるが、それにしても低賃金であるから、やっと生活できる程度であったろう。
ところが間もなく天保の飢饉の襲来で、米価等が騰貴して、生活が困難になった。ことに天保七年の秋以来、米直段その外が高直となり、ついに同八年には、南品川宿の御状箱持夫八人が歎願をして、七月には一人金一歩ずつ、計二両、十一月には一人金二朱ずつ、計一両の増給を受けた(資一六八号)。その請書のなかで、今年は京都所司代・大坂城代の転役、御大礼御用(家慶の将軍宣下)などで御状箱の御用が格別多くて、外に助成の稼ぎもできなかった、といっているので、平年は助成稼ぎをしていたことが知られる。その後もしばしば増手当を受けている(同上)。
御状箱持夫は何年も継続して勤める者もあり、十数年に及ぶ者もあった。かれらは御状箱持夫請役になったときには請状を提出する。その要旨は次のごとくである。
一、御老中様ならびに遠国御役人様方の宿次証文を以て御継立の御状箱の、時刻や日限の指定のあるのは申すまでもなく、通例の御状箱でも少しも遅滞なく持送る。ほかに御用物などがあれば、なおさら途中などに気をつけ、少しも油断なく御役を相勤める。
一、下り方(江戸行)の御状箱を御用番の老中方へ持込みのとき、あるいは御台所へ持込みの節、その外の御役人方へ持込みの際に、将軍の御成りがあって行会いになったときは、先例のとおり取計らうのはもとより、重い御役人方に出会ったときも、無礼のないように心得て、御役を大切に勤める。
一、御役勤務中であっても、往来の者へ対してがさつのことがないように慎しむ(『品川町史』中巻八ページ)。
御状箱は、川留にあったときでも、川明になれば第一番に渡る特権を持っていたほどなので、とかく通行を急ぐあまり、がさつの行為があったのである。また御成りの列にあったときに早飛脚はどうするか、先例によるとしているが、寛政八年(一七九六)九月、将軍家斉が品川筋へ御成りになり、六郷川の船内で食事をすることになったが、そういうときに早飛脚が来ればいかがするかについて、目付から品川宿に先例の問合わせがあった。そのときに品川宿では、早飛脚が御成りの列に行きあえば、御払先(杖払い)まで行き、そこで御払の者の指図をうけ、将軍の通行が済んだあと、声をかけずに物静かに持送り、廻り道はしない。また御成りの列のあとから早飛脚が来たときは、お跡について行き、将軍がある場所に止まられれば、人留めをしている場所まで行って、その場所の掛り役人の指図を受ける、という申し伝えになっているが、まだ御成りのときに早飛脚が行き合わせたことはない。今後も右のように取計らうつもりである、と答えている(「委細書附録」)。
御状箱持夫は一定人数であるから、とくに輻湊して不足になったときには、人足を雇い上げる。その費用と川支(かわづかえ)または日限延着になったときに、老中や道中奉行所へ届けに廻る人足の手当銭を合わせて、天保十一年には銭二一貫三〇〇文が支払われている。
これらを合わせると、天保十一年に南品川宿では御状箱継立方諸入用が、金二九両一分一朱・銀三〇二匁八分・銭九九貫五四三文、これを金に直して四八両三分二朱と銭八三六文であった。また同年の御状箱は上りだけ一一二度、人足は南北両宿で二六二人であった(『品川町史』中巻一一ページ)。下りも同数とみて、平均すれば一日に上下各一回にもたらなかったのである。