御状箱の継立は宿の業務としても、きわめて重要なものであったから、少しでも誤りがあると道中奉行はその事情を調査し、場合によっては処罰した。品川宿でも文政十年(一八二七)二月に、御状箱継所・名主利田(かがた)吉左衛門外六名が罰せられている。すなわち吉左衛門と、その同役宇田川吉三郎の後見八木庄九郎の両名は、宿継御状箱御用物継立方を引きうけている以上は、諸事念を入れて取り計らうべきところ、宿々継ぎ送ってきたうちには時刻におくれたものもあり、あるいは破損したところや、指札や封印によごれがあって、老中方へ注進をしなければならないものを、道中奉行所へ訴え出もせず、ことに庄九郎は、その注進書を一々写しもとらずに差し上げ、あとで心覚えで留帳に書き入れておいたので、本書とは文段も相違しており、吉左衛門にいたっては留帳に写してもおかず、心覚えだけで放置しておいたのは等閑至極であり、不埓につき両人とも過料銭五貫文、と申し渡された。また御状箱継所貯人久兵衛・利助・同見習元次郎・下役喜八・幸助の五名は、御状箱継所へ代わるがわる出勤して御用物等の継立を取扱っている以上は、諸事念を入れるべきところ、庄九郎や吉左衛門の取計らいになずみ、御状箱御用物のうちに延刻に及ぶものもあり、損所やよごれがあったときに、奉行所への訴え出がなおざりになったのは、心得方が不行届であるとして、急度(きっと)叱り、とされた(『五街道取締書物類寄』二十一)。貯人というのは賄人の誤写かとも思われるが、おそらく書役に相当するものであろう。このように、御状箱と御用物の継立は、宿場としては細心の注意を要するものであった。