継飛脚給米

718 ~ 719

宿で継飛脚の負担をするのに対して、幕府では継飛脚給米を下付した。江戸の伝馬町では、前述のように一二石三斗六升を与えられていて、それは家康入国以来のことであると称していたが、その年代には疑問がある。

 東海道各宿に支給したのは、寛永十年(一六三三)三月に、将軍家光の上洛に先立って給与したのに始まり、以後毎年支給した(1)。その額は、前後の宿への距離を合わせた里数に比例し、一里について一五俵余が原則であったが、山坂などの難所のあるところは加給した(『民間省要』)。継飛脚給米は、東海道とともに美濃路の各宿にも支給し、正徳五年(一七一五)には東海道の脇道の佐屋路の四宿に、享保六年(一七二一)には、中山道の垂井(たるい)から守山の一一ヵ宿と、日光・奥州・甲州道中の一部の宿にも支給した(2)。

 品川宿の継飛脚給米は、天保末年には二六石九斗であるが(『東海道宿村大概帳』)、享保十八年(一七三三)と元文四年(一七三九)の江戸伝馬町の書上によると、品川宿へは、寛永十年以来継飛脚・伝馬の者へ救いとして米七二俵二斗六升が支給されている(『御伝馬方旧記』五・七)。元文四年の書上では、石に直して、三六石一斗八升となっているが、これは二六石一斗八升の誤りかと思われる。そうすれば一俵が三斗六升入りの計算になる。そして天保までの間に若干の変動があったということになる。

 品川から江戸伝馬町まで二里、川崎までは二里半、合わせて四里半であるから、一里に一五俵とすれば七五俵半、一俵に三斗五升入りとすれば二六石四斗余になり、ほぼ数字があう。ただし、品川宿では下りの御状箱は江戸伝馬町へは継ぎ立てないで、老中の屋敷などへ直接に持参するから、二里という距離は一応の目安ということにすぎない。

 この継飛脚給米は、宿の継飛脚の諸費用を賄うのに十分であったわけではないので、不足分は宿方の負担になった。継飛脚給米のほかに、品川宿では享保三年(一七一八)に、御状箱賄所営繕費として金八〇両の交付を受けたことがある(『品川町史』中巻一〇ページ)。また『三島市誌』によると、正保三年(一六四六)に、後水尾上皇が御不例のときに、同宿の継飛脚の者へ銭三〇貫文を下付され、翌四年ポルトガル船が長崎に渡来して貿易の再開を求めたときに、継飛脚の者へ銭二〇貫文を与えられたとあるが(中巻二〇六ページ)、品川宿の記録では、正保三年の分はなく、四年のものも、「長崎御用につき御伝馬の者共昼夜相勤め候につき、御救として仰せつけられ候」とあって(『御伝馬方旧記』五)、継飛脚の者に限定していない。宿全体に対する救助はこのほかにも多くあって、これだけが継飛脚の者の救助のために与えられたとは断定できない。宿の負担に対して、継飛脚給米だけでは不十分であったけれども、幕府としては、この給米の増額等は行なわなかったものとみることができよう。