大名飛脚

719 ~ 724

大名が国許と江戸、または京都・大坂その他の必要地との通信連絡にあてるものを大名飛脚という。そのなかには、特に駐在員を置いて、独自の通信機関を設けるものがあったが、そのなかで最もよく知られているのは、尾張徳川家と紀伊徳川家の七里飛脚で、七里ごとに中継地を設けたのでその名がある。尾張家のものは、六郷村から池鯉鮒(ちりゅう)宿までの間に十八ヵ所、紀伊家のものは神奈川宿から佐屋宿までに一四ヵ所(伊勢から紀州まで一〇宿)の飛脚小屋があり、書状だけの継立を行なった。ここには常に詰めている駐在員がいて、宿人馬で継送する御用物のときも付き添ったのであるが、御三家の権威を笠に着て、横暴な行為が多く、宿駅を苦しめた。かつ状箱の継立さえ宿人足にさせ、自身は監督だけするようになった。

 川崎宿の問屋で、八代吉宗時代に登用されて幕府の代官になった田中丘隅(きゅうぐ)は、その著の『民間省要』のなかで、「七里飛脚の者は自分で持運ぶべき大切の御状箱を問屋の人足にまかせ、自分で持つことは稀で、刀をさし小袖などを着て、慰みごとに遊びふけって、その費用はみな宿々へかけて人民を苦しめる。常に御状箱を笠に着て、宿々の問屋場や海川の渡し場では、種々の難題を吹きかけて金を借りる口実にする。五、七日に一度は、間(あい)の宿々に泊まって、自分につき従う者を集めて、女色を催して酒宴遊興をし、衣類や傘を借りても返すこともなく、これらの費用はすべて宿々舟場々々へかかる。常に馳走にあい、金を借りても露ほども恩に思わず、ましてありがたいとは考えず、あとからまた無心をいう。二、三年以来道中第一の難儀はこれである。」と述べている。

 これは宿の問屋の立場からの実感であろう。この飛脚小屋には無宿者が集まり博奕(ばくち)をしているという風聞があったから、幕府の役人が調べてみると、全く事実であったから、天明二年(一七八二)に道中奉行は、老中田沼意次(おきつぐ)に伺を立てた上で、道中筋に触を出して、宿方から小屋を見廻って、博奕うちなどの集まらないようにするように命じたが(「委細書附録」)、宿方の者でどうして取締まることができたであろうか。

 尾張家では、文政五年(一八二二)に主法替があって、七里飛脚を廃し、状箱も宿次にしたが、『品川町史』によれば、天保十四年(一八四三)にまた復活したという(中巻二六ページ)。しかし、その引用文では復活したことが確認できないが、安政三年(一八五六)の文書に、これまで国許より差下した御状箱・御用物へ付添っていた七里御役所詰合の者を廃して、今後御状箱・御用物差下しのときには、御小人(おこびと)目付を品川宿から府内まで付添わせることにして、南品川宿四町目内に詰所を設け、御小人目付を常駐させるということがあるから(同上二七ページ)、七里役所というものが安政三年まであったことは明らかで、これは天保に復活したのではなく、御状箱・御用物に付添うための者が駐在していたと考えられる。ただし、御小人目付の詰所ができて、平日御小人目付衆通行のときには、不礼不取締のないように、地借(じがり)・店借(たながり)末々の者まで申し渡された南品川宿の人々にとっては迷惑千万であったろう。紀伊家の七里飛脚は寛政元年(一七八九)に、大坂屋に御用物輸送を委託したときに廃止されたものであろうという(同上)。

 松江・鳥取・津山・高松等の諸藩では、大坂以西に、七里飛脚のごとき制度を設けたというが、東海道では尾張・紀伊両家のほかには、こういう制度はなかったようである。

 通常の大名は、下級藩士や足軽を飛脚として国許と江戸、または必要地との連絡にあたらせるが、大名の通し飛脚というのは、自身で御状箱を持っていくほかに、宿の人足を使い、御定賃銭を払うのが多く、そのときは自分はその宰領をするのである。飛脚は書状のほかに荷物を携行することが多く、その場合には宿馬を使った。飛脚の用務は急を要することが多いので、人馬を急がせるために、早追い継(はやおいつぎ)または夜通継(よどおしつぎ)をする。その場合には賃銭の増額を認められた。

 寛文五年(一六六五)に、夜通飛脚継立のときは、軽尻でも本馬の賃銭を受取る定めである、とされ(3)、以来とくに規定はなかったが、文政五年(一八二二)十月に、道中奉行所から通達が出て、「夜通し飛脚は急用であるから、荷物が軽くなくては途中が手間どるから、本馬にすることはまれのはずである。軽尻馬二疋にするように取計らい、もし荷造りによって二疋に分けがたく、本馬で継ぎ立てたいということであれば勝手次第である。夜通し継の軽尻に本馬賃銭を払うことは寛文五年にお触があるが、本馬を夜通し継にする賃銭の取極めはなかった。しかし本馬の貫目は軽尻の二倍であるから、その賃銭の差の二倍を、本馬賃銭へ加えなくては不相当である。たとえば本馬賃銭四八文で、軽尻賃銭三二文であれば、その差一六文の二倍の三二文を本馬賃銭に加えて、八〇文を本馬夜通し継の賃銭にするように心得ること、」とされた(4)。

 この原則にもとずく規定が、文政七年十一月に、道中奉行から江戸出口の四ヵ宿に通達された。

 御定賃銭が本馬二〇〇文  軽尻一四八文  人足一〇〇文の場合

平常の夜通し継(夜五ツ時(八時)より暁七ツ時(四時)まで)

 本馬一疋三〇〇文(本馬と尻軽の差の二倍増)

 軽尻一疋二〇〇文(本馬賃銭になる)

 人足一人   二〇〇文(二人前)

昼の早追い継(暁七ツ時より夜五ツ時まで)

 本馬一疋   三〇〇文(本馬と尻軽の差の二倍増)

 軽尻一疋   二〇〇文(本馬賃銭になる)

 人足一人   一七二文(一人七分五厘前)

夜の早追い継  (夜五ツ時より暁七ツ時まで)

 本馬一疋   四〇〇文(二疋分)

 軽尻一疋   三〇〇文(二疋分)

 人足一人   二四八文(二人半前)

(『五街道取締書物類寄』九)

 当時は九六法といい、九十六文を百文、四十八文を五十文と呼んでいた。人足賃の一七二文は九十六文の七分五厘増であり、二四八文は当時の呼び方では二百五十文である。正味百文または五十文であるときには、長・丁・調などの字をつけて、丁五十文というように呼ぶ。これは一般にも用いられたが、とくに人馬賃銭は九六法が常態であった。

 このように早追い継や夜通し継の規定ができたにもかかわらず、大名飛脚のなかには増賃銭を払わないものもあって、天保六年(一八三五)に品川宿が書上げたものでは、松平大隅守(鹿児島島津氏)・松平因幡守(鳥取の池田氏)・松平安芸守(広島浅野氏)・松平大膳大夫(萩毛利氏)の飛脚中には権威がましいものがあるといい(資一六七号)、嘉永二年(一八四九)には、品川宿から箱根宿までの一〇ヵ宿の役人が宿々取締掛役人へ訴え出ている。その訴願書のなかに、「諸家方飛脚のうち、松平喬松磨(鳥取の池田氏)・松平内蔵頭(岡山の池田氏)・松平土佐守(高知の山内氏)・松平大隅守(鹿児島島津氏)家の飛脚は、宿々において平日も権威強く、追増(おいまし)賃銭の払いもなく、無体に馬を追わせ、小田原宿・箱根宿は山中嶮岨な場所であるのに、平地同様に急がせ、馬士どもはことのほか難渋するので、宿々で余分の賃銭を与えて、ようやく継立をしている。このような悪例が他へ移っては甚だ難儀となり、将来飛脚の荷をつける馬がなくなっては差支えるから、秩序正しく通行するようにしてもらいたい、」と述べている(『品川町史』中巻三三ページ)。

 翌年にも、並飛脚で早追い、夜通しをし、ことわれば手荒なことをする者もあり、近来は早駈・夜通し継が増加して、馬持どもは難儀をし、潰れ馬がおびただしく出て、宿・助郷とも飛脚通行にははなはだ難渋している、と訴えている(同上三四ページ)。

 大名飛脚は、いずれにしても、その権威をかざして、正当な賃銭を払わず、宿や助郷に大きな負担をかけていたが、なかでも大大名の飛脚が宿々を困らせていたのである。