町飛脚

724 ~ 726

庶民の通信機関としては町飛脚があるが、その発端は武士のものであった。元和元年(一六一五)に大坂城が陥り、そのあと一時、松平忠明が城主となったが、同五年大和の郡山に移封されたのちは、大坂城は幕府の監理となり、大坂城代のほかに、大坂城警備のために、城番・加番の大名が置かれ、さらに大番の旗本が二組ずつ一年交代で勤務し、京都の二条城にも同様に大番士が勤番した。大番は一二組あって、組ごとに大番頭一名・組頭四名・組衆(番士)五〇名がおり、ほかに与力一〇騎と同心二〇人が付属していた。

 これら勤番の将士と江戸の家族などとの間の通信には、継飛脚を利用することができなかったから、東海道各宿の問屋と謀って、諸士の家僕を飛脚宰領(さいりょう)として、宿人馬を利用して、御定賃銭で往復することを始めた。その後、寛永ごろから大坂の商人のなかにも飛脚業を始める者が出たが、かれらも大坂城の番士の家僕の名をかり、その法被(はっぴ)を着し、刀を帯びて往来し、宿人馬を利用したので、宿側からはその不平を訴えた。

 寛文三年(一六六三)になって、江戸・京都・大坂の三都の商人が飛脚屋を創業した。その組合に入ったものは、大坂では藤屋市兵衛・江戸屋平兵衛・鉈屋長兵衛・中島屋門右衛門、江戸では備前屋与兵衛・山田屋八左衛門・木津屋六左衛門・和泉屋甚兵衛・大坂屋茂兵衛、京都では大黒屋庄二郎・伏見屋某・江戸屋吉兵衛らの一三名であったという(「定飛脚旧記」)。東海道を片道六日で行くことを定規としたので定六といい、また毎月この日に大坂を発するので、三度飛脚といわれた(「島屋家声録」)。

 これが町飛脚の始めであったが、商業の発展につれて飛脚業も発展して、享保年間には、江戸から高崎・福島・伊勢崎・藤岡等の間にも飛脚通信が行なわれ、書状のほかに金銭の郵送も行なわれ、ことに島屋・京屋が各地に支店を設けるようになった。

 正徳五年(一七一五)には、江戸新橋の若狭屋忠右衛門が、これまでの飛脚が遅延することが多かったので、新たに東海道の歩行(かち)飛脚を始め、間もなく品川から大坂まで一八ヵ所の継所を設け、登り継飛脚を請負い、宿々を追い通して遞送した。元文四年(一七三九)には大坂の飛脚問屋の柳屋嘉兵衛が、早飛脚を創始して騎馬で遞送したので、世間では通馬(とおしうま)早飛脚と呼んだ(「定飛脚日記」)。若狭屋の業務は大いに隆盛になったが、島屋佐右衛門らが競争できなくなって、忠右衛門が道中奉行の許可を得ていなかったことと、夜間に継ぎ通すのとを口実に訴え出たために、寛保三年(一七四三)に禁止された(「町飛脚旧記」)。


第169図 東海道行程表(日通資料室蔵)
各地間の距離や飛脚の出発日が記してある。

 飛脚業は逐年盛大になり、取次所も安永二年(一七七三)には東海道に一八ヵ所設けられたほかに、西上州・甲州道中・奥州道中にも設置され、通信・送金・為替等が広範囲にわたって、たやすくおこなわれるようになった。

 しかし、従来町飛脚の荷は相対賃銭で輸送していたので、宿々では私用として扱ったために、到着がおくれ、江戸・大坂間も早飛脚で六日、並飛脚は八、九日もかかり、宿々の都合ではさらに遅れ、安永ごろになると早飛脚が八、九日、並飛脚では二〇日も三〇日もかかるようになった。そこで業者は天明二年(一七八二)になって組合を作り、年年五〇両の冥加金を納めることにして、株仲間を認められた。これより定飛脚問屋と称し、その荷には定飛脚の会符(えふ)をさし、宰領は定飛脚の焼印を押した木札を携帯し、御定賃銭で継立が認められた。


第170図 定飛脚の鑑札
(日通資料室蔵)

 江戸飛脚問屋は会符一七五本、京都飛脚問屋は一六五本、大坂飛脚問屋は六五本、奥州飛脚問屋は七〇本、上州飛脚問屋は一六五本、計六四〇本で、焼印札も同数であった(『駅逓志稿考証』九九四節)。町飛脚にとってはきわめて有利であったが、宿駅にはそれだけの負担となった。これは田沼の冥加運上増加政策と関係があると思われるが、宿駅には特別の恩典が認められたわけではない。この町飛脚は、早飛脚は乗掛馬一疋で往来するが、並飛脚は荷物の輸送もしたので、物資の輸送にも大きな役割を果たしたのである。

 いずれにしても、継飛脚をはじめ、大名飛脚・町飛脚ともに、宿駅人馬を利用することになったのである。