通し日雇人足

727 ~ 728

武家や公家は、朱印や証文による無賃人馬と、御定賃銭や相対賃銭による有賃の人馬を使用したが、これらの宿や助郷の人馬は、継立をして宿ごとに交代をし、いく宿かを継ぎ通すことは許されていなかった。これは荷物の積み卸しにも時間を要し、相対賃銭の場合にはそれほど安価でもなかった。

 ことに遠隔地の大名が参勤交代をするときには、宿駅制度が整わない街道もあり、必要の人馬を求めることができないことも多かった。それゆえ参勤のときには国許から人足をつれて行き、下国のときには国許から呼びよせたりしたのであるが、それにも無用の費えがあった。そこで、その人足を請負う者が発生し、必要数の人足を提供した。参勤交代の大名に限らず、江戸から京都や大坂に行く大名や旗本にも利用されるようになった。この業者を通日雇(とおしひやとい)請負人という。

 江戸には、武家へ年季奉公人を斡旋する業者、商家へ年季奉公人を周旋する業者、鳶職・土工などの日雇労務者を世話する業者などがあったが、通日雇請負人は、街道の運輸通信に関する人足の請負業者であった。その発生はいつからであるか明確ではないが、参勤制度が確立してから間もない十七世紀半ばではないであろうか。江戸だけでなく、京都や大坂にも発生した。かれらは人足部屋を持ち、多くの人足を抱えてい、また諸家へ出入りをした。

 諸家では入札によって低額の業者に請負わせたが、ときには一定の出入りの業者がきまることもあった。江戸から行くだけでなく、国許まで出かけて、参府のときの人足を請負うこともあった。かれらは後に述べるように、六組飛脚仲間を組織するが、安芸の厳島神社の海上に張り出した舞台の前には、かれらが献納した大きな銅灯籠が立っている。伏見の御香宮には石の水鉢が上げてある。島田宿の諏訪神社の石灯籠にはかれらの名が刻んである。いかにかれらが活躍したかがわかる。

 この通日雇人足は、宿場から最も嫌われたものの一つである。かれらは御用往来の旗本や大名、あるいは二条城・大坂城等の在番の旗本に雇われて往復するときには、主人の権威をかりて、宿場で病気や足痛を理由として駕籠(かご)を出させて乗り、あるいは人足を出させて荷物をかつがせ、賃銭を払わないばかりか、酒代などを強要し、宿・助郷の人足を打擲するなど不法の行為が絶えなかった。

 正徳二年(一七一二)に新井白石が駅制改革をしたときにも、江戸・京都・大坂の人足請負業者に取締りを命じ、宿々に対しても、非分のことをする者があれば、そこに留めおいて道中奉行へ届け出るように命じた(『御触書寛保集成』道中筋之部)。しかし到底一片の通牒で止むものではなかった。天保十三年(一八四二)に道中奉行が宿々に対して問合わせをしたなかに、江戸・京・大坂其外紀州若山・尾州名古屋辺の者が請負って差出した道中日雇の者どもが、とかく主人の権威を以て不束(ふつつか)のことがある由であるが、委細の始末と、雇人足の名、請負人の名前まで調べて差出すように命じている。これに対して中山道の追分宿などでは、かれらが種々の申掛けをして、旅籠屋(はたごや)ならびに馬士(まご)・人足が難渋しているが、名前は控えていないから、以後は控えておく、と答えている。また安政五年(一八五八)九月には、軽井沢・沓掛・追分三宿の助郷八七ヵ村の惣代が、上洛する老中間部詮勝に対して、碓氷峠(うすいとうげ)の上で駕籠訴(かごそ)をして、御用通行の諸家の従者らの不法横暴を訴えており、翌六年には、軽井沢・沓掛・追分・小田井・岩村田五宿の助郷一〇七ヵ村の惣代が出府して、道中奉行に対して、通日雇人足の不法を訴願したが、効果はなかった。