道中の不法者

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通日雇人足に対する宿側の不満はどこでも限りないほどに出ている。しかし通し人足の側からすれば、道中の宿にも不法の者が数多くいた。すなわち、小揚取(こあげとり)(荷物の積み卸しをする者)や、住所不定の悪者が宿々を徘徊していて、通し人足に喧嘩をしかけたり、金子をねだり取ったりした。寛保三年(一七四三)の夏、江戸日本橋の通日雇請負人の米屋久右衛門が、丹後田辺の牧野因幡守の供をして西上したとき、よほど前から駕籠に簾(すだれ)をおろして用心をして通ったが、品川宿の観音前から、がんち平助・紀州宇右衛門・髪五郎・番五郎・因幡又兵衛・大仏伊兵衛・仙台十蔵らが立ちはだかり、無案内に左右から駕籠の簾を上げ、「そりゃ久右衛門、鈴ケ森の海へ投げこめ」など言い、それより立場ごとに悪口雑言を言い、川崎・神奈川よりも加わり、戸塚の止宿では、帳場へ大勢が土足で踏みこみ、悪口雑言をして喧嘩をしかけ、問屋役人が来てようやく逃げ去った。小田原宿も同様で、箱根の山東がとくに悪者が多かった。


第171図 東海道の雲助(石黒敬七『写された幕末』1)
女づれの者や役者などがおどされたのも無理はない。

 こういう状態で、通し人足も高賃銭を払わなければ道中をしないようになり、請負人は営業ができないというので、翌延享元年三月、六組の請負人惣代が町奉行・道中奉行に、品川宿より小田原宿までの宿々に対して、悪党どもの取締りをするようにという、通達を出すことを願い出た。さらに幾度か願書を出したが、五月八日には、小揚取悪党どもの名を書出した。それによると、品川宿では紀州宇兵衛(ママ)・同利助・大仏伊兵衛・髪五郎・神文利八・番五郎らの名が挙がっていて、藤沢宿まで二二人、このほかに名前の知れない者がおびただしい、としている。

 六月になると、小笠原伊予守(小倉藩主嫡子)の通し人馬一式を請負った伊勢屋九郎左衛門の名代八兵衛・嘉七がのぼったときには、大津宿で悪党に脅迫され、「帰りには大津か草津の土になろう。両宿のうちで踏み殺し、お慈悲に紙の位牌(いはい)を江戸の六組へ送ってやろう」といわれ、大坂へ行ったまま帰ってくることができなくなった。これは道中奉行の通達でおさまったが、小揚取らの取締りの触書は、一七年を経た宝暦十年(一七六〇)七月になって、五街道の宿々へ通達され、小揚取・無宿の悪党があれば、召捕えて申出るように命ぜられたのである(5)。