組合の編成

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道中の悪党はその後も横行して通日雇人足の宰領分らが金銭を取られることがあり、天明七年(一七八七)十二月にも、大坂の請負人の宰領が品川宿の八ツ山で喧嘩をしかけられ、腰の物を取りあげて打擲された上、金二分を押し取られ、さらに高輪大木戸で金一両を奪われ、道中奉行所へ駈込み訴訟をした事件があった。これが発端となって、江戸六組の請負人一九四人が仲間を作って統制を計り、通日雇人足の不法を防ぐとともに、宿方と協定を結ぶことを願い出て、寛政元年(一七八九)四月にいたって承認された。

 これは宿方からは通し人足の不法が絶えず訴え出されていたので、道中奉行は仲間を認めて統制させようとしたもので、通日雇側の訴願だけを聞入れたのではなかった。その結果、仲間一九四人銘々の町所名前を記した鑑札を宿々へ渡しておき、通し人足には下ケ札を渡して、もし通し人足に不法があれば請負人から弁済することになったのである。

 六組は、日本橋組・京橋組・芝口組・大芝組・神田組・山之手組で、人数はそれぞれ一二・五二・二〇・四二・四四・二二人であった(二人不足)。各組とも月行事や年行事を決めた。また仲間外の者が請負をしても妨害をしないことや、新規加入を認めることなども定めた。道中奉行は五街道の宿々の問屋・年寄へ組合を認めたことを通達し、仲間の名前も知らせた。

 これに対して、品川宿問屋山本伊左衛門・井沢庄蔵をはじめ小田原宿までの問屋が連名で、右組合員の通日雇人足のうちに病人でもあれば、問屋役人が世話をして、代わりの人足を出して、貫目相応の賃銭を受取る旨を通知した。

 道中奉行は、組合結成が取締りに便宜として、京都・大坂・伏見の町奉行へ掛け合って、それぞれ組合を作らせた。このときは京都一六人、大坂九二人、伏見一二人、計一二〇人であったが、伏見では翌寛政二年に二〇人が加わっている。六組請負人の印鑑は不揃いであったので新しく作り、一九四人の印鑑帳を作り、道中奉行の承認を得た上で、品川宿問屋山本伊左衛門へ掛け合って、一二二冊の印鑑帳を、品川宿より守山宿まで、佐屋路ともに六一宿へ二冊ずつを宿継で配分した。また甲州道中は内藤新宿より上諏訪宿まで一冊ずつ四五冊、中山道は板橋宿より守山宿まで、美濃路とも、一冊ずつ七五冊、日光道中は千住宿から日光鉢石まで二一宿、奥州道中は白河まで一〇宿、合わせて三一冊送った(「六組飛脚問屋旧記」)。

 これで通日雇人足と宿方との紛争が終わったわけではなく、幕末まで継続したことは前述のとおりであるが、この後は、宿方としても不法の人足に対しては、抗議をする相手が確定したので、ときには組合と協定を結ぶこともあった。

1 『徳川実紀』の寛永十年三月十一日の条には、江戸より大坂までの各宿に米五〇俵ずつとあり、『徳川禁令考』所収の史料(一二五一六番)では米五〇〇俵ずつとしているが、後述のように宿ごとに違いがあった。しかし五〇俵ずつの方が実数に近い。

 2 山本光正「継飛脚の財源について」(「法政史学」第二三号)

 3 『日本財政経済史料』第四巻 九三五ページ所収「新撰憲法秘録三」

 4 同上 九三六ページ所収『肝要録』

 5 「六組飛脚問屋旧記」・『近世交通史料集』一所収「五街道取締書物類寄」十六