本陣の窮乏

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本陣は参勤交代の大名の休泊を主眼にしたものであるが、勅使・院使・宮・門跡等もこれを利用した。大名は出発前に宿割役人を先発させて、宿ごとの旅宿の役割をするが、前後して関札を三枚ずつ宿々に届ける。これは木の板に、「松平大膳大夫泊」、「松平安芸守休」などと墨書したもので、宿では到着日には宿の前後の口と本陣の前とに、青竹などに結んで建てた。関札でなければ懸札であった。文政六年(一八二三)に、広島の浅野氏が道中奉行に対して、関札は十万石以上、それ以下は懸札という差別があるかと問い合わせたのに対して、奉行は、その差別はなく、部屋住でも同様であると答えている(9)。

 大名が本陣に宿泊するときには、側近者は別として、家臣は宿内の他の旅籠屋に泊まる。これも宿割役人があらかじめ決めておく。旅籠屋で間にあわないときには寺院を用いることもある。品川宿では、休泊を引きうけた寺は、心海寺・願行寺・法禅寺・善福寺などで、ほかに東海寺は公家衆の休泊を受けたことがある(10)。


第175図 本陣(広重の東海道五十三次の関)
大名が泊っているので,定紋の幕をはり関札が立ててある。

 大名は調理人までつれているときには、必要な品だけを買い上げて料理をさせる。本陣では鶏卵などを献ずることもある。大名が支払うのは一定額ではなく、大名によって区々である。川崎宿の名主を勤め、享保時代に幕府に登用された田中丘隅が、その著の『民間省要』に記しているところによれば、五千石から一万石内外で、休み所に賜わるものは金百疋か二百疋、あるいは銀一枚(四三匁)、泊れば二百疋か三百疋あるいは五百疋ぐらいまでである。四、五万石より十四、五万石までのうちには、さまざまの善悪・是非・邪正が多い。これは分限の高下にはよらず、その家に邪正があるのである。賜うものは、休所で二百疋から六百疋までか銀一枚から二枚、泊所で一両から三両まで、または銀二枚から五枚までであるが、家々の格によってさまざまである。十七、八万石から五十万・七十万石の家でもさほど差別はないもので、休所でようやく四、五百疋か二枚か三枚の間、泊所で二、三枚か三、五枚に過ぎない、としている(11)。

 また概していえば、小家は卑下の心があって、諸役人から下々にいたるまで高ぶらず、また食事づきであるから本陣の利益になるが、大身になると食事をつけるのは稀であり、家臣から下々にいたるまで、大身を鼻にかけて高ぶりおごる。古くは本陣への賜物も多く、年頭などに御機嫌伺いに出れば拝領物もあり、火災にあった本陣には諸家から合力があったが、諸大名が財政難になるにつれて、支出の減少が武士の嗜(たしな)みの第一となり、休泊のときの賜物だけとなって、何の親しみもないようになった(12)。

 ひとたび関札を打てば他の旅客をことごとく断わるが、川留などあれば旅程がくるい、一年中の渡世で、参勤交代のときを待っていたのに、たちまち大きな失墜となる。本陣は宿内の長として、筋目もすぐれた者がなっていたのに、今は宿々の本陣ほど無益(不利益)なものはなく、代々所持してきた田畑山林等も売り払って半潰れになったものもあり、家もろともに名跡を他に譲ったものもあって、無事なのは稀であるといわれるようになった(13)。

 参勤交代の大名の休泊が本陣にとって利益があるということは、大名によっては経費がかかるということであった。したがって本陣に休泊することをやめ、宿はずれの茶屋に休みなどして、本陣はますます窮迫した。

 文政七年(一八二四)八月に、品川・川崎・神奈川・保土ケ谷・戸塚・藤沢の六ヵ宿を支配していた代官の中村八太夫は、品川・川崎両宿本陣の窮乏を述べて次のように建言している。「品川宿本陣は類焼のさい、家作が自力でできず、さりとて伝奏衆の泊りもあるので、捨ておくことができず、品川海辺御備御貸付利金溜のうちから貸し渡し、返納は村々取集穀御貸付利金で年々返納することとし、川崎宿本陣も困窮し、去年八月の大風雨で大破したが、自力で修復ができず拝借金を願い出、ついにこれも品川海辺御備御貸付金溜のうちから家作料として金二〇〇両を貸し渡し、返納については、家内で相当に生活している者から追々に一〇〇両を差し出し、残金一〇〇両は宿貯穀取集払代貸付利金を以て返納することとして、二〇〇両を二五ヵ年賦で返納する条件で、現在伺い中である。

 周辺の村々を巡回のさいに本陣困窮の理由を糺したところ、三〇年ほど前から、諸家(主として大名をさす)が追々倹約になり、旅籠銭そのほかの手当も減少したが、品川・川崎ともに江戸に近い宿方のために、宿泊も少なく、休息が主であるところ、品川宿の方は、町奉行支配の品川寺門前にある釜屋という茶屋が、本陣同様に家作をつくろい、川崎宿では、宿の入口に万年屋という茶屋があって、次第に家作も手広につくろったので、近年は往来の旅人のほか、諸家が昼休みに使い、本陣へ休むべき分も追々に減少した。それにつれて旅籠屋も下宿(家臣の休泊所)となることが少なくなって、助成にならず、本陣は次第に衰えたと申立てている。

 さりとて本陣で賤しい稼ぎ(食売女を置くことなどをいう)もできず、自然と品川・川崎に限らず、海辺筋の宿々の本陣は次第に困窮に及ぶであろう。これによって考えるに、本陣は諸大名休泊のために建て置かれたものであるのに、宿々の端場の茶屋などへ昼休・小休(昼休み以外の休憩午後に一度が通例)を申し付けては、本陣を建て置かれた詮もなく、将来本陣が困窮することは疑いない。諸家が倹約のためとはいいながら、小休・昼休等を端々の茶屋へ申し付けては、諸侯の外聞にもかかわることであるから、諸家留守居どもへ、昼休・小休等は、そのために本陣を建て置かれたことであるから、以来参勤交代等の節は、本陣へ小休・昼休をするように仰せ渡されたならば、以前の通りになり、自然と本陣も困窮から立ちもどり、幕府の助成も少なくてすむことであろう、」というのである。

 このときに品川宿の端茶屋で昼休をした諸家の名を書き上げているが、島津(鹿児島)・毛利(萩)・山内(高知)・柳沢(郡山)・奥平(中津)・阿部(福山)をはじめ八二家、交代寄合が一四家、登りのときに端茶屋で昼休をした大名が二二家、交代寄合が一家で、半数の大名は本陣を利用していないのである(14)。

 この代官中村八太夫の申立に基き、道中奉行岩瀬伊予守(氏記)・石川主水正(忠房)は、月番老中の水野出羽守(忠成)へ伺いを立て、「本陣の困窮によって幕府から補助をしているが、その原因は諸家が休泊に本陣を使用しなくなったためで、これでは本陣を建て置く甲斐もない。本陣は普通の旅籠屋と異なって、その他の人の休泊は少なく、諸家休泊の助成で相続してきたのであるが、このように困窮しては本陣を勤める者もなくなるようになり、普請手入れも行きとどかずに放置をするようになり、本陣へ休泊してきた諸家は差しつかえるであろうし、さりとて普請・修復のたびに補助をするのは容易なことではないから、以来諸家参勤交代の節には本陣で小休をして、端場茶屋などへ小休をしないように申し渡されたい、」と述べた。

 これに対して、老中は、一律に本陣の小休を強要しては万石以下の小高の者(交代寄合)が困るであろうから、その程合いを勘弁するように指示し、結局万石以上へ対して、道中奉行から書面で達するか、勘定所へ家来を呼び出して申し渡した。これが文政七年十二月のことである(15)。このあと、諸大名から道中奉行へ対して種々の問合わせがあったが、奉行はかなり厳格に指示を守るように返答している。

 大名が休泊に本陣を使用することが指示されたといっても、財政難の大名は、下賜金や旅籠代を軽減したので、本陣の経営は余裕を生ずるには至らなかった。