本陣に大名が休泊すれば、家臣は他の旅籠屋に休泊し、それを下宿という。大通行または何人かの大名が落合って、全部の旅籠屋を使っても不足をすれば、水茶屋に割りあて、また寺院を使うこともあったが、それほどの家数を必要としないときには、品川宿では、三宿の旅籠屋が十日交替で引き受けた。大名宿の下宿は利益があるものではなかったから、下宿に割りあてられることを好まなかったのである。もっとも初めからそうであったのではなく、大名の財政難がひびいて、支出を引きしめた結果である。すでに『民間省要』にも記されているから、十八世紀半ばには、その傾向が見えていたのであり、東海道のごとく一般の旅行者が多く、それらから利益をあげることができる宿場では、他の街道におけるより早くその傾向が出たのである。
『民間省要』には宿場の疲弊する原因や実情をくわしく記しているが、諸家の休泊するさいの難儀の一つは、その大名の家によって、おびただしく本陣の諸道具が紛失することであるといっている。その品々は椀・家具・重箱・皿・鉢・銚子・盃・あんどん・燭台・屏風・たばこぼんの類など限りがない。きせるなどは五〇本出せば、一〇本返すのはまれである。きせる・茶わん・引盆の類で、袖に入りやすい物で品のよいのはなくなりやすい。これは大勢が入りこみ、ことに上り下りする雇者に雲助もまじって、夜中の出発のさいには、だれかれの見境もないからである。
雨の降るときはござの紛失することがおびただしい。本陣によっては、みな他から借りて出す損料物である。ござ一枚一夜の損料三文、ふとん一枚が一二文、一五文、かや一張三二文から六四文まである。これを本陣から損料を出して借りて使う。末々の中間(ちゅうげん)で雇者の旅なれたのは、寒(かん)の内もあわせ一枚着て、衣類二つ三つずつ借りて、くるまって寝る。翌日これを日に乾かして、ほうきでしらみをはらう。
こういう下賤の者にかぎらず、気に合わないことがあれば、畳に火をこぼし、小刀できざみ、戸障子・屏風をふみ破り、唐紙や柱に釘を打ちつけ、諸道具を打ち破りなどするので、理非は争わず、できるだけ言いなりになるのである。間には衣類やふとんをまぎらかして荷物につけこみ、あるいは下に着て行く。椀・家具・なべ・やくわんなどの大きな物を長持にまぎれて入れて行く者もある。それを見て、ときの様子では笑いごとにして取りもどすこともあるが、ちゃんとした人が残っていたり、目付などがいるときには、知らぬ顔をして、やってしまうことも多い。
損料物の損失も、その人たちが規定の旅籠銭を払って行けば、その利益でおぎなうこともできるが、そういう者は主家からは旅籠銭を受けとりながら、自分自分に米を買い、取りこみ最中に本陣の者を催促して、二升三升ずつ組み合って、鍋をいくつも借りて食事をつくり、椀や膳・皿・鉢まで借りて、人をつかい、物を費しても、木銭一文を払うわけではなく、みな本陣の損失になる。
このような不法は本陣だけではなく、その下宿となった旅籠屋においても同様であったから、諸家の下宿となることを喜ばなくなり、宿割をする本陣の手代に贈賄して、下宿の割当を免れようとするものさえ生じたのである(16)。