品川宿の町並

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品川宿は江戸日本橋の方から行けば、京橋・新橋・金杉橋・芝口橋を経て高輪(たかなわ)の大木戸(おおきど)にかかる。宝永七年(一七一〇)に東海道の左右に石垣を築き、高札場としたところで、いわば江戸の入口である。このあたりから品川までは海ぞいであって、茶屋などが立ち並び、京登り(きょうのぼり)、東下り(あずまくだり)、伊勢参宮などの旅人を送り迎える人々は、ここで宴を張るのが普通で、品川まで足をのばすのは親しいなかである。


第176図 高輪大木戸(江戸名所図会)
今も片側の石垣は残っている(国の史跡)。右下が高札場。

 このあたり、品川宿までを高輪といい、長さ八町、右手(北側)は家並がつらなり、幕末ではその過半は品川宿の娼家(食売旅籠屋)の引手茶屋であった。左(南)は海岸で、葭簀(よしず)ばりの水茶屋が立ち並んで空地もなかった。この水茶屋も引手茶屋から兼ねるものが多かった(『近世風俗志』)。参勤交代の大名もここで休憩するものもあって、文化十一年(一八一四)に東海道を通って帰国した金沢藩主前田斉広は、七っ(四時)すぎに本郷の藩邸を出て、暮ごろに高輪に着いて小憩し、二階から品川の海に浮かぶ多くの舟などを眺め、七時ごろ品川の本陣に着いた。高輪の本陣から品川の本陣まで八町、左は海手で風景がよろしいと、「東海道御道中雑記」(金沢市立図書館)に記している。高輪の本陣は、享和二年(一八〇二)の例でみると万屋又四郎方である(同所蔵「東海道通行記」)。大名はそれぞれきまった茶屋に休み、そこを本陣と称していたのである。大木戸を過ぎて間もなく右手には泉岳寺があり、さらに進めば鹿児島(島津)・久留米(有馬)などの藩邸が並び、やがて右手にある小丘陵が八っ山(谷山とも書く)で、ここが品川宿の入口(品川駅付近)である。加賀藩の記録をかりれば、「品川駅は東海道五十三次の首駅にて、東都江戸の喉口なる故に、平常賑しき事、他駅に異なりき」ということになる(「東海道通行記」)。入口に近く歩行(かち)新宿があり、道は海ばたを離れて町並に入る。右手には御殿山があって、桜のころは江戸市民の遊楽地となるが、山下には多くの社寺があり、門前町があるが、稲荷社(品川神社)は歩行新宿と北品川宿との鎮守であった。寛永十五年(一六三八)に東海寺が創建されたときに、境内の南が用地になり、代替地として一、八一三坪を与えられた。東海寺は朱印五〇〇石の大寺で、宿内混雑のときには公家衆の宿舎になることもあった。明治元年に品川県が置かれたときに、その庁舎にあてようとして建物の多くが破壊されるまで、宿内第一の伽藍であった。歩行新宿と北品川宿とは接続しているが、北品川宿の終わるところは目黒川で、橋の手前の右側に高札場があった。高札場には、親子兄弟夫婦などがむつまじくして家業にいそしむべきことを書いた札、切支丹制禁の札、放火犯人を訴え出すべき札、毒薬・似せ貨幣禁止の札、徒党・強訴・逃散(ちょうさん)禁止の札、駄賃馬および人足の荷物の貫目規定の札、品川より江戸までと川崎までの駄賃・人足賃の規定札など、普通の宿場に共通したもののほかに、海辺であるから、唐物を密輸入することの禁制札なども掛けてあった。この高札場と両品川境の橋の普請は三宿の共同負担であった(資一三九号)。なおほかに浦高札場は南品川猟師町の入口にあった。


第177図 芝浦風景(広重の江戸百景)
右手上が品川の海


第178図 品川寺(江戸名所図会)
門を入って左手の石の台上の地蔵尊は江戸六地蔵の一つ。本尊は水月観音。

 目黒川を渡れば南品川宿で、右手の川沿いに貴布祢(きぶね)社(荏原神社)があり、宿内には多くの寺院があり、その門前町が宿並となっていた。古い寺としては妙国寺があり、海晏(かいあん)寺は紅葉の名所として知られていた。南品川宿は鮫洲(さめず)・御林(おはやし)町につづくが、ここは目黒川の河口にできた猟師町とともに、漁業の盛んなところであった。