宿場に旅籠屋や茶屋が多いのは、宿駅の性質上当然であろう。宿駅の業務の重要なものとして、旅人の休泊がある。江戸時代の初期には休息する場所と宿泊する場所の差別もなく、農家に近い形の家並で、実際には農業を兼ねていた家が多かったであろう。そののちに休憩する所は茶屋となり、宿泊をさせる家が旅籠屋になった。これは後には営業を明確に分けて、一方は休息場所、一方は宿泊場所として、茶屋は人を泊めず、旅籠屋は休憩所には使用させないことを原則にするようになった。
旅籠屋は先に述べたように、食事を供給する宿屋であって、旅人が食料を携帯していて、燃料を求めて煮たきする木賃宿と区別された。「柳菴雑筆」に、慶長ごろは、旅人は糒(ほしい)二合五勺を一日分として、十日路を行くには二升五合を背負って、旅宿について湯をわかして糒を食って寝るだけのことであったので、湯の木の代を払って往来したのであるといっている(『近世風俗志』)。こういう木賃宿がいつから旅籠屋に転じたかは議論があるところで、十六世紀の戦国時代の末には旅籠が一般的になっていたという説もあれば(18)、万治二年(一六五九)に宿駅の遊女が禁止されて食売女があらわれるようになったのを旅籠屋出現の契機とする説もあるが(19)、食事を提供するということは画一的に行なわれるものではないし、遊女のいること自体がすでに食事づきの宿泊を前提としなければならず、食売女は遊女の変名にすぎず、給仕の女は出居(でい)女、台所に働く女は水仕(みずし)と呼ばれて区別されていたから、食売女または飯盛女ということばが使用されたからといって、食事の提供と関係させることは無理であろう。また『駅遞志稿考証』の寛文三年(一六六三)四月に、将軍家綱の日光社参にあたって、諸道の各宿に対して、「房銭ハ其薪柴ト共ニ銭六文馬ハ銭八文」と定めたことをもって、木銭から房銭すなわち旅籠へ移行したとする説もあるが(20)、この房銭というのは、「薪柴ト共ニ」とあるのでもわかるように木銭どまりをさしていて、旅籠どまりを意味してはいない。房銭ということばは『駅逓志稿』の編者が用いたもので、もとの語ではないであろう。多分宿賃であろう。
すでに慶長十六年(一六一一)二月に、家康が上洛するにあたって幕府の重臣が東海道の日坂(にっさか)・舞坂・赤坂・御油(ごゆ)などの諸宿にあてた伝馬の駄賃定書のなかに、「木銭は鐚(びた)三文、馬は一疋に鐚六文、木銭を取ったからは、つかい道具を借さないなどと言ってはならないことで、木銭では宿を借さず、旅籠なら借す、などと、わがままを言ってはならない、」といっていて(21)、すでに東海道では食事つきの宿泊が普及してしていることを示している。もう少し後の万治元年(一六五八)に刊行された『東海道名所記』には、東海道の多くの宿で、はたごどまりをさせていた実況を描いているが、夕食は宿屋で出し、朝食は携行食をとる例も記している。宿屋が自己の利益や旅人の便宜を考えて、しだいに食事を用意するようになってきたもので、それには旅行者が平均して通行することや、宿内では食料がいつでも自由に入手できるという、流通機構の発達が関係していた。
東海道のように早くから交通量が多かったところでは、江戸時代初期から食事付きの宿屋があったとみてもよいであろう。貞享三年(一六八六)に幕府の代官大久保平兵衛が、支配所の武蔵国高麗郡などに出した触書のなかに、手代が廻村して村方に逗留したときに、これまでは一日一人に扶持米五合を宿に与えるだけであったが、これから後は、五合扶持のほかに木銭として主人の分は一二文、下人は六文を渡す、といっている(『演習古文書選』近世編)。これは木銭どまりのようではあるが、実際には、宿所で調理して提供したにちがいなく、主人と下人との木銭に差があるのも、その待遇が異なっていたことを示すものである。
また米と木銭を渡すことになっているのが、のちには米代と木銭ということになり、街道でも公用旅行者については幕末までその形式が残っていた。いずれにしても、貞享ごろには、山近い農村地帯でも自分で炊事をする宿泊方法は行なわれなくなっていたといえよう。もちろん旅行者が希望すれば、木銭どまりも、自分炊事もできたであろう。ただ、木銭の名称が存するから、自分炊事が一般的に行なわれていたとはいえないのである。
さらに進めば、食事づきの宿泊方法が一般的となり、宿屋の多くは木賃の客を扱わなくなって、木賃客を専門にする旅宿は別になったのである。旅行者も通常の者は旅籠屋へとまり、木賃宿へとまるのは巡礼その他、多くは貧困者であって、木賃宿は安宿の代名詞となった。
品川宿の旅籠屋数は、元文(十八世紀半ば)以前は一八〇軒あったが、火災や旅行者の減少で数がへり、宝暦十三年(一七六三)には七〇軒となり、うち南品川宿に二四軒、北品川宿に一八軒、歩行新宿に二八軒であった。十九世紀に入って、文政の「地誌御調書上」では、南品川宿には脇本陣一軒・中旅籠屋一九軒・小旅籠屋一六軒、北品川宿には本陣一軒・中旅籠屋一九軒・小旅籠屋二軒、歩行新宿には脇本陣一軒・間広旅籠屋七軒・中旅籠屋二〇軒、本陣・脇本陣を除いて八三軒であった(21)。
天保十四年(一八四三)の「宿方明細書上帳」(資一七二号)によれば、前述のように食売旅籠屋九二軒、平旅籠屋一九軒で、計一一一軒であるが、同年の道中奉行所の調べでは、本陣一軒・脇本陣二軒のほかに、旅籠屋九三軒で、うち大が九軒、中が六六軒(22)、小が一八軒で、数が合わない。しかし宿全体の家数や人数は両者とも合致している。代官所へ出す書類と道中奉行所へ出すのとで何らかの作意が加えられていたのかも知れない。弘化三年の数は「宿方明細書上帳」に近い。
いずれにしても、江戸時代末には一〇〇軒前後の旅籠屋があったことになるが、天保十四年の道中奉行所の調査では、東海道諸宿のうち、熱田の二四八軒が特に多く、桑名の一二〇軒、岡崎の一一二軒がそれに次ぎ、四日市の九八軒、小田原の九五軒、浜松の九四軒の次が品川の九三軒である。熱田は熱田神宮の所在地であり、船着場であり、桑名・岡崎・小田原・浜松は城下町、四日市は海陸の要地、それに比べて品川は陸上一方で、このにぎわいは、江戸に近いことが大きな原因となっていた。
それをよく示すのが、食売旅籠屋が圧倒的に多く、食売女(飯盛女)のいない平旅籠屋はその四分の一にも達していないことである。また江戸に近い歩行新宿に大きな旅籠屋が多かったことも同じ理由であった。そうなると、品川宿は通常の宿場というよりは、江戸近郊の遊興場であるという性格が強くなってくる。交通の要地には、平安時代の昔から遊君・遊女がいて、旅行者の興をさそうものであったから、宿場に遊興施設が存在することは特別なことではないが、旅行者の休泊の施設というよりは、遊びの場所という面が主要になってきたのである。
十八世紀になって、江戸の市民にも経済的な余裕が生じ、行楽に外出するようになり、品川の御殿山の桜、海晏寺の紅葉、袖が浦の汐干狩と、この地区にも人を呼びよせる要素があった。さらに相模の大山詣りや鎌倉・江の島方面への信仰をかねた小旅行が行なわれ、次いでは伊勢参宮や京見物も一般化した。旅はほとんど男の独占するところであったから、かれらは精進落しと称し、あるいは旅のあかを落すといって、江戸入口の宿で遊興をした。また江戸の府内から、新吉原へ行くには遠い芝方面の人たちが一夜の興を求めてやってきた。そして一種の歓楽境ができあがった。