旅籠屋に対する取締りとしては、前記のように、木銭どまりの客はことわり、旅籠(食事つき)ならば宿を貸そうということを禁じているが、これものちには旅行者も旅籠どまりが便宜となったので、問題は生じていない。幕府では不審者の宿泊を警戒して、旅人が二夜つづけて宿泊することを禁じている。貞享二年(一六八五)の宿駅へあてた覚書でも、往来の旅人が理由もなく逗留していたならば、吟味をして、不審者はその地の代官または領主へ訴え出るように命じている(『御触書寛保集成』道中筋之部)。このために一人旅の者が宿泊をことわられるようなこともあった。そこで同四年には、不審な者でなければ一人旅人でも一夜はとめてやり、不自由をかけないようにすることを改めて通達した(『牧民全鑑』道中筋)。
品川宿でも、旅籠屋では旅人に国所・名前などをたずねて泊り帳へ記入しておくことになっていたが、混雑のときにはそれもできず、ことに名前をこまかくたずねると旅人がきらって避けるようになるので、あらましを聞くだけで、泊り帳を見ても旅人の国所・名前が明細にわかるわけではなかった。
享保十八年(一七三三)には、宿泊の旅人が病気になれば、そこの宿役人が立会って医師にかけて治療をし、その者の領主・代官へ注進をし、帰郷したい者は村継ぎにして送りとどけてやり、途中で死亡すれば、そこへ仮埋葬をして、その者の在所の村役人・親類へ知らせるように命じ、これは同二十年や明和四年(一七六七)にも再三通達している(『御触書天明集成』道中筋之部)。旅籠屋に対する規定としては、宿賃を定めている。慶長十六年(一六一一)の家康の上洛にあたって、前述のように、木銭は、人には鐚(びた)三文、馬一疋は六文、としているのを初め、大通行のときなどにはしばしば公定している。それを表示すると、第40表のごとくである。
慶長十六 | 同十九 | 元和三 | 万治一 (薪代とも) |
寛文五 | 天和三 (?) |
元禄三 | 正徳一 | 文久三 | 慶応一 | 慶応二 | ||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
(自分 薪) | (自分 薪) | |||||||||||
主人木銭 | 3 | 3 0 | 4 2 | 6 | 16 | 25 | 27 | 35 | 旅籠銭 | 248 | 248 | 400 |
召仕木銭 | 6 | 10 | 13 | 17 | 昼食料 | 124 | 124 | 200 | ||||
馬 | 6 | 6 0 | 8 4 | 10 | 16 | 25 | 27 | 35 | 馬宿泊料 | 500 | 800 | |
昼秣料 | 250 | 400 |
注 寛文五年改訂前は主人木銭と馬は一二文、召仕木銭は四文であったが、そう決った年は不明である。
ここで規定しているのは、公用旅行者に対するもので、宿舎は御用宿として徴用されるのと同じであるから、文字どおり木銭を払うにすぎない。慶長十九年(一六一四)十月の規定は大坂の役に出陣するにあたって幕府が定めたものであるが、薪を自ら携行すれば宿賃は払うには及ばないとしている(『徳川実紀』同月十九日の条)。元和三年(一六一七)の規定では、宿賃と薪代を合わせたものを木銭としており、万治元年(一六五八)になると、薪代を含んだ宿賃のみを定めていて、すでに薪を携行する風がなくなっていたと考えられる。大名・旗本でも、食料を携行する風はしだいに減じたが、幕府で旅籠銭をきめるのは幕末になってのことである。旅籠銭の規定がないから、すべて木銭どまりであったというわけではない。そのときには、宿泊者と旅宿との相対できめられたが、公用旅行者や参勤交代の大名などの場合には自ら一定の値幅ができた。
天保十一年(一八四〇)二月に金沢藩主が東海道を通って帰国したときに、東海道各宿に払った宿賃は、上旅籠一人分が二五〇文、中旅籠が二〇〇文、下旅籠が一八〇文、乗馬一疋が五五〇文(干草二貫目・堅大豆一升・粉糠三升)であった(「東海道御帰国触留」)。文久三年(一八六三)に将軍家茂が上洛のときには、上下の別なく二四八文、昼食料は一二四文とし、慶応二年(一八六六)に家茂が大坂で没したときに陸路帰府する者に対しては、一人の泊銭を四〇〇文、昼食料を二〇〇文としているが、これは銭相場の下落によるところが大きい。なお四八文というのは、当時の銭算用では五〇文ということである。
幕府の規定にかかわらず、公用旅行者のなかには不当に安価な宿賃しか払わない者があって、御用宿に指定された旅宿は損失を蒙るので、宿全体として不足分を補償するのが例になっていた。慶応二年八月に、道中方勘定や普請役の者が、武家方の旅籠代等を調べたときに、品川宿問屋が書上げたところによると、
紀州家家中 泊 [上下とも(挿入)]五〇〇文 休 [上下とも(挿入)]二四八文
尾州家家中 泊 [上下とも(挿入)]四〇〇文 休 [上下とも(挿入)]二〇〇文
水戸家家中 泊 [上(挿入)]二四八文 [下(挿入)]二〇〇文
休 [上(挿入)]一二四文 [下(挿入)]一〇〇文
一橋家家中 泊 [上(挿入)]三〇〇文 [下(挿入)]二八〇文
(これは七月までは上二〇〇文、下一八〇文であったが、宿々から難渋を申立てて値上げになったものである。)
田安家家中 泊 [上(挿入)]三六四文 [下(挿入)]三四八文
休 [上(挿入)]一八〇文 [下(挿入)]一七二文
講武所方・大炮方・別手組・京都見廻り役
木銭・米銭払
二条定番組与力・同心衆
泊 一〇〇文 休 四八文
(ただし、安旅籠代は、大坂番頭組与力・同心の振り合いで支払われるので宿々で難渋している。そのほか京都警衛の諸家方は道中並旅籠を支払っている。)
横浜御用別手組 木銭・米代払
同所警衛千人同心衆
安旅籠代 泊二四八文 休一二四文
異人付添衆
旅籠払 泊五〇〇文 馬一貫文
(ただし、同所掛り役人は木銭・米代払)
当節道中並相対旅籠代
[上泊(挿入)]一貫文 [中泊(挿入)]八四八文 [下泊(挿入)]七〇〇文
(『品川町史』上巻八四〇ページ)
通常の旅籠代が一貫文から七〇〇文の間であるのに、よくても半額、わるければ四分の一しか払わないのであるから、旅籠屋が困却するのは当然であった。このうち二条城・大坂城警備の大番の組与力・同心、あるいは御三家家中の安旅籠は前から宿々を苦しめていたものであるが、幕末になって異国船の渡来、横浜の開港、京坂の警備などで、幕府役人の往来がはげしくなり、かれらは公用旅行者として、木銭と米代しか払わなかったり、安旅籠代で休泊するので、宿方の難渋はひとかたではなかった。
安政五年(一八五八)七月から六年六月にかけては、アメリカ・ロシア・フランス等の軍艦が相ついで品川沖に来舶して、幕府に通商条約の締結をもとめたが、そのたびに幕府役人は品川宿に出役して数日間逗留したので、御用宿となった旅籠屋は渡世を休んで応待につとめなければならず、他の旅籠屋より金を出しあって、一日に一両から二両ぐらいを御用宿に渡し、それらの負担は一年間には四二〇両にも及んだ。
御用宿へ宿方から助成するのを賄足銭(たしせん)といい、古くからあったことであるが、幕末になれば公用旅行者の往来、ことに撒兵(さんぺい)隊・組合銃隊など将兵の通行が多く、慶応三年(一八六七)には、正月から六月はじめまでの間に一四〇両余、六月には二二〇両余、七月には一九五両余、八月には二二一両余、九月には一九四両余、十月には一四四両余、十一月には一五三両余、十二月には一八六両余の巨額に達している(『品川町史』上巻八五五ページ)。御用宿をした旅籠屋は、釜屋・村田屋・京屋などが多い(同上)。
幕府が木銭などを公定したことは公用旅行者にこのように悪用されて、旅籠屋は御用宿に指定されると負担がかかることになり、一般の旅行者の宿泊によって、その埋め合わせをした。旅客を呼びとめるためには宿引(やどひき)を出したり、留女(とめおんな)に呼びこませたりするのが例で、強引に休泊を勧め、応じない旅人には悪口雑言を吐いたり、喧嘩を仕かけたりすることもあった。寛政七年(一七九五)十二月に、品川・川崎・神奈川・保土ケ谷・戸塚・藤沢の六ヵ宿の宿役人から道中奉行へ出した請書のなかには、「宿内で宿引をして日雇かせぎをしている者や、諸参詣人の多い時節に途中まで大勢出迎えて、よい旅宿があると勧誘して旅籠屋につれこんで口銭を取る者があり、旅籠屋のうちにも宿引を出すものがあって、旅人が難儀をするということで、宿役人どもがなおざりにしていたのは不埓であるから、今後は宿役人も旅籠屋も申合わせて、右様のことはしてはならない、という御達しに背かないようにする、」と述べている(『品川町史』上巻八三八ページ)。
しかし、翌年二月に品川宿では支配の代官へ対して、「当宿では右様に宿引が大勢出迎えに出ることはなく、今後もしないようにするが、当宿では、宿内や高輪町の水茶屋へ休んだ旅人が、酒食などをしたいと言えば、その茶屋から旅籠屋へ案内をして休泊させるのである。茶屋へは旅人一人につき銭二四文ずつ手引(てびき)銭をやり、それで宿内や高輪町の大勢の茶屋どもが渡世をしているのであるから、十二月に道中奉行から禁止された宿引に似かよってはいるが、旅人に強いて勧めるわけでもなく、難儀をかけているわけでもないから、水茶屋助成のために、これまでどおりにすることを認めていただくように、道中奉行所へ仰せ立てていただきたい、」と願い出ている(同上)。結果はわからないが、高輪の引手茶屋はそのまま継続していた。
品川宿に宿引がなかったということはなく、旅籠屋の下男・下女たちが往還へ出て、御用往来の人も、急用で通行の人の差別もなく、無体に引きとめ、衣類を破ったり、怪我をさせたり、口論に及んだりしたので、文政七年(一八二四)には、旅籠屋たちは、今後は銘々の居宅の軒下にかぎり、往還や隣家の前までは出ないこと、軒下でも無体には引きとめないという一札を宿役人に入れているが、その後も宿引はなくならなかった(同上)。