宿々の旅籠屋に対しては遊女を置くことが禁止されていた。宿駅に遊女がいるのは古代からのことで、鎌倉時代になれば、東海道の諸宿にも遊女が多くいたことが『吾妻鏡』などにしばしばあらわれる。源頼朝が建久元年(一一九〇)に上洛したときに、浜名湖の西岸橋本宿には遊女が群参し、頼朝がこれに多くの贈物を与え、また連歌の興行をしたことなどは有名である。
しかし遊女の身の上は、貞応二年(一二二三)の『海道記』に足柄峠の東麓の関下(せきもと)の宿(しゅく)のことを記して、「宅をならぶる住人は人を宿して主とし、窓にうたふ君女は客をとどめて夫とす、あはれむべし、ちとせのちぎりを旅宿の一夜のゆめにむすび、生涯のたのみを往還諸人の望みにかく、」と述べているように、まことにはかないものであった。これは後の時代も同じである。
江戸時代になり、吉原を公認の遊郭とすると、慶安元年(一六四八)には他の場所で遊女を置くことを禁止し、その後、風呂屋の湯女(ゆな)が遊女まがいのことをすると、承応元年(一六五二)には風呂屋に遊女を置くことは一軒に二名と限り、明暦三年(一六五七)に吉原が浅草に移されて新吉原になったときに、府内の風呂屋に遊女を置くことを禁じた(『御触書寛保集成』四十六)。この後もたびたび禁令を出しているが、非公認の遊郭ができて、岡場所と呼ばれて繁昌した。京都でも元和三年(一六一七)に柳町(のち島原へ移る)の遊郭のほかは遊女を禁じた。
街道の宿場に対しては、万治三年(一六六〇)に国廻り役の下枝忠兵衛(正忠)と落合三郎左衛門(通秋)とが幕命によって道中の宿々に伝えた箇条書のなかで、遊女を置くことを禁じており、もし遊女のいるのを発見すれば、村役人や五人組まで処罰する、と述べている(『御当家令条』巻二〇)。これは東海道の宿へ対するものであったようで、寛文五年(一六六五)には、中山道の宿に、東海道のごとく遊女・博奕を禁ずると命じている。遊女の禁令はこの後もくりかえして出されているが、宿々の旅籠屋では、食(めし)たき女・食売女と称して、遊女と同じに売春をさせた。寛文六年(一六六六)に、食たき女に布(ぬの)・木綿(もめん)のほかの衣類着用を禁じ、絹類は襟(えり)や帯(おび)にしてもならないとし、もし背けば遊女同様に処罰する、としているのも(「中山道追分宿文書」)、食たき女が遊女にかわるものになってきたことを示している。
江戸府内でも延宝六年(一六七八)に、これまで営業してきた茶屋のほか新規に始めることを禁じ、もしなくてはならない所は奉行所へ訴え出て、その指図に従うこと、茶屋の給仕女は二人にかぎり、妻・よめ・娘などであっても馳走に出してはならないこと、茶屋女の衣装は布・木綿にかぎること、茶屋商売は明け六っ(日の出ごろ)から暮六っ(日没ごろ)までにかぎることなどを命じている(『御触書寛保集成』二十二)。茶屋に女を置くことは天和二年(一六八二)には禁止したが(『同上』四十六)、遊女も茶屋女もなくなりはしなかったのである。
宿々の食売女を飯盛(めしもり)女ともいうが、幕府の布達類では食売女として、あくまでも遊女でないという原則を通しているが、単なる給仕女であれば、置くことを禁止したり、数を制限する必要もないわけで、実は食売女という遊女を公認していたことになるのである。
遊女が各所にいることは吉原の営業の障害になるので、吉原ではたびたび町奉行所へ訴え出ており、奉行所は取締り令を出したり、あるいは調査して取りつぶし、遊女は吉原で入札に付したりしたが、根絶させることはできなかった。元禄十五年(一七〇二)に吉原が遊女商売をしている所として訴え出した一八ヵ所のなかには、品川町・千住町・四ツ谷新宿・板橋の、江戸の出口の四宿も入っていて、食売女が実は遊女であることを明らかにしている(『未刊随筆百種』所収「遊女諸事出入書留」)。
宝永五年(一七〇八)に、さらに吉原から訴え出た訴状には「音羽町(護国寺門前)・池之端(いけのはた)宮永町(上野山下)の二ヵ所は家作おびただしく、遊女を多く置いて商売をしている。別して品川入口の新町(のちの歩行(かち)新宿)の茶屋はいずれも特にりっぱに居宅を海手へかけ作りにし、遊女を大分に置いて、昼夜にかぎらず遊女商売をしている。このため田舎から来た傾城(けいせい)奉公人は、品川および新町で買い受け、また関東北から来た女は千住・板橋・四ツ谷大木戸で買い取り、そのほか町々端々の茶屋遊女屋に女子を多く抱えているので、新吉原へは少しも傾城奉公人が来ない、」と述べている(同上)。
しかし品川宿のうちでも、北品川・南品川の伝馬負担の町に対して、新町やそれにつづく善福寺・法禅寺の門前町の煮売茶屋の者が茶屋女を置いて、本宿の旅籠屋の客を奪うようになったので、品川宿内でも争いが生じた。宝永六年には南北両宿の伝馬役の者が、新町および善福寺・法禅寺門前の者が茶屋女を置くことを禁止されるように、道中奉行所へ訴え出ている(『品川町史』中巻六九七ページ)。その訴状のなかに、先年鈴森社領門前に茶屋町があって茶屋女を置いたが、伝馬宿の障りになるという理由で、高木伊勢守が奉行のときに、家居ともに取潰しになったことや、妙国寺門前・品川寺門前から茶屋女のことを願い出たが、本宿の障りになるので許可されなかったことを述べている。新町および両門前町は、高輪町と品川宿の間に位して、地の利を占めていて、旅人を宿泊させることは禁止されているのに、日暮れから表の戸はしめて、くぐり戸だけを明けておいて、そこから男または女を通して泊まらせるようになって、次第に本宿をしのぐようになったのである。同じ訴状中に、本宿の旅籠屋は一二〇軒あったが、今は潰れて残り五、六〇軒になり、このうちにも二〇軒は潰れかけていて、残りの者では伝馬役を勤めることができない、といっている。
この結果は恐らく禁止されたのであろうが、やがてまたゆるんで正徳五年(一七一五)に再び新町および善福寺・法禅寺門前の茶屋が食売女を置くことは禁止されたが、またいつとなく元へもどり、享保三年(一七一八)には、食売女を置いた家主からは過料を徴して戸〆(じめ)を申渡し、家屋は通常の茶屋造りにさせ、二階座敷は取り払わせ、女たちは親か親類へ引き渡した(22)。なお同時に、旅籠屋一軒には古来のとおり、食売女二人のほかに置いてはならないことを厳達した(23)。
しかし、新町および両門前の者は、伝馬役のうち人足役を勤めていたので、それを理由に食売女を置くことを願い出し、享保七年(一七二二)になって、道中奉行は、新町・両門前の茶屋町の名目をやめ、歩行新宿と改めて加宿(かしゅく)とし、食売女一人ずつを置いて旅籠屋を営むことを許した(資一六〇号)。これより品川三宿はすべて食売女を置くことを公認されたのであるが、その数には制限があった。