品川は東海道出口の交通の要所を占めているので遊客も多く、したがって食売女も数を越し、享保五年に新吉原の者が訴え出たところによると、品川三宿には千余人がいたという(24)。ことに歩行新宿の松屋・小泉屋・油屋の三軒は大きな家をつくり、華美な家具・調度をそなえ、客は芝あたりの大名から陪臣の富裕者で、遊女も吉原の太夫・格子にもおとらぬ容体であった。そのために寛保二年(一七四二)五月十四日夜、新吉原の者が案内をして町奉行の組同心百余人が品川宿に踏みこみ、食売女二百余人を捕え、七月になって、もっとも繁昌していた歩行新宿の松屋六右衛門を所払(ところばらい)にしたのをはじめ、所払・手錠・過料等の処罰をし、遊女六三人は新吉原へ預けた(25)。これは品川宿にとっては大騒動で、所払や逃亡のために明家になった旅籠屋も多く、家財・道具を盗賊に奪われるなどで、一時衰微したが、しばらくすると、また旧に復した。
しかしこのときを最初として、食売女の過人数召捕え事件はしばしば起こったが、明和元年(一七六四)七月になり、歩行新宿の旅籠屋足立屋藤四郎の召仕の食売下女さよが、町奉行所へ駈込(かけこみ)訴訟をしたことから、藤四郎方へ捕方が出張し、一宿が騒動し、家業も手につかず、食売女も多く逃亡した。これにより支配代官から、三宿の名主・店頭(たながしら)・旅籠屋惣代に対して、考えていることを遠慮なく書き出すように命じたので、三宿からそれぞれ書付を提出した。
南品川宿から出したものによると、品川宿は往還御用が格別に多いところへ、御鷹場所であるから、その役人の御用宿を常に勤めており、日々おびただしい御用向で、旅籠屋は利益が薄く、潰れた者も多い。三〇年前は三宿で一八〇軒あった旅箱屋も現在は八〇軒に足りないので、御大家が休泊になると、二家は引きうけられない。食売も往古よりは減少している。規定の数では座敷向きの立働きや給仕にも間にあわないので、病人の代わりとか物縫や下働等に女奉公人をかかえている。また年季の明ける食売女があれば、その代わりとして半年ぐらい前から見習いとして雇っておくが、それでも不足をするので、近所の百姓・商人の娘や女房まで雇って御用を勤めるので、ほかからは過人数の様に見えるが、それでなくては旅籠屋は勤まらない。
二十三年前(寛保二年)以来十余度にわたって、御吟味があり、そのたびにおびただしい失費をしてきたが、このたび藤四郎方へ捕方を出されたので、食売女は申すに及ばず、家内の者まで逃げ散り、御用宿を勤めることはできず、旅籠屋も衰微して、潰れになるのは目前である。それにつれて、朝夕出入りの野菜売りなどの商人や、日雇の者まで渡世が薄くなって、宿内も自然に衰微するであろうし、地方の百姓も取り立てるべき地代・店賃も取れず、御伝馬役を勤めかねることになろう、といっている。
三宿の願書は代官より道中奉行へ達したが、八月七日に道中奉行所へ三宿の名主・店頭・旅籠屋惣代が召喚され、道中奉行の安藤弾正少弼(だんじょうしょうひつ)(惟要)・池田筑後守(政倫)らが列座して、弾正少弼から、「これまで食売女は南北品川宿では旅籠屋一軒に二人、歩行新宿では一人という定法であったが、以来は本宿と新宿の差別なく、一軒に何人と限らず、三宿で五〇〇人まではかかえることを許す」という申し渡しがあった。同時に板橋・千住の両宿へは、一宿に一五〇人の食売女を置くことを許した(26)。品川・板橋・千住の三宿にとっては思いがけない吉報であって、品川宿では、それから毎年の八月七日には、弾正日待(だんじょうひまち)ととなえて、安藤弾正少弼と代官の伊奈備前守・勘定組頭江坂孫三郎の画像と姓名の軸をかけ、そのときの請(うけ)証文へ神酒をそなえ、赤飯をたき、三宿の旅籠屋がより集まって感謝の祭りをするのが例になった(27)。千住などでも同じようなことが行なわれていた。
こうして食売女五〇〇人が許されたことは、江戸近郊の遊興場として公認されたことを示すものであったが、さらに天明二年(一七八二)には、歩行新宿は惣旅籠屋が芸師(男女芸者)を旅籠屋へ呼び入れることの許可を支配代官伊奈半左衛門(忠尊)の役所へ願い出て許された。そのときの願書によれば、品川宿で平日休泊する者は、近郷の神社へ参詣かたがた遊興に出たもので、旅行体のものではないから、遊興を主にして、鳴物などを楽しみ、相手になる者を求めるから、先年から土地で娘子供へ歌や三味線の指南をしている者を呼びにやって旅人の相手にさせてきた。近年は江戸町の所々に芸者が多くなり、高輪町の水茶屋で酒宴をして、その手引で休泊に来る者が、目立った風俗の女芸者などを連れてくるので、当宿にもそのような者を置いておくかととがめられることを恐れて、五年前(安永七年)に高輪町から連れて来ることを断わった。しかし鳴物がないのが気づまりで、高輪町で遊興して当宿まで来ないようになり、とかく衰微のもとであるから、旅人の弾語(ひきがた)りや、旅人の懇意な三味線弾(ひき)などを呼ぶことを許してもらいたい、と述べている。こうして遊芸指南を看板にしている男女の芸者が旅籠屋へ入ることが認められ、遊興場としての性質が顕著になった。
このとき芸師らは、旅籠屋へ入れば酒食もすることであるからとして、雇銭のうちから七二文ずつを口銭として旅籠屋へ出すことにした。旅籠屋では、芸師立入りが許可されたのは、そのときの名主・店頭(たながしら)の功労として、七二文のうちから二〇%を歩行新宿・北品川宿の名主へ、一〇%をそのときの両宿の店頭へ永久にやることにきめた。さらにその後、改所を扱っていた店頭の七右衛門が困窮したので、在職中二〇%を補助とし、残りの五〇%は旅籠屋どもの宿入用にあて、なお残りがあれば、銘々の高に応じて配分することにした(『品川町史』中巻七六一・七六八ページ)。
芸師は、後には郭(くるわ)芸者などと呼ばれ、男が二、三〇人、女が四、五〇人であった。また慶応二年(一八六六)の記録では、一ヵ月間に旅籠屋へ入る芸師はおよそ二、〇〇〇組で、うち三五〇組が北品川宿で、残りは歩行新宿の旅籠屋へ入った。芸師の住むのも、新宿の西裏で、そこに集団居住していて、昭和時代まで及んだのである。
道中奉行や代官は、宿駅の繁栄が食売女の存否と関係のあることは知っていた。道中奉行は、公用旅行者のためには宿の存続は必要不可欠としており、代官は支配所内の宿村が疲弊しては、年貢・諸役の負担にたえられなくなることを憂慮していたから、食売女の増員が認められたのである。他の宿でも宿の助成のために食売女を新規に置くことを認めた例はある(28)。品川宿で一軒に一人または二人という制限が解かれたことは、総数も無制限になったと同じで、新吉原の者も宿内で総人数がどれほどかという証拠を示して訴え出すことはできなくなった。明和につづいて安永・天明という、風俗が華美に流れ、取締りもゆるやかな時代となり、品川宿の繁栄期が来るのである。
品川宿にかぎらず、宿々の食売女が花麗な服装をし、夜になると表見世(みせ)先へならび、奥座敷で音曲などを催す例が多く、道中奉行はしばしば禁令を出していた(29)。宿場は御用通行の増加による負担増の損失を、食売女を置く旅籠屋の出金で補っていた。それだけ、平旅籠屋に比べて食売旅籠屋の利益が大であり、宿場は交通上の機能を果たすために、歓楽的要素を強めるという矛盾にぶつかっていた。文化・文政の大御所時代をすぎて、天保の改革が始まると、宿場も大きな影響を受けた。
天保十三年(一八四二)に、江戸では吉原以外での遊女商売が禁止され、道中筋の旅籠屋で遊女まがいのことをすることも禁ぜられ、翌十四年には、食売女を見世先へ出すことはもとより、二階格子口などの人目につく所へ出すことが禁止された。水野忠邦はそのあと老中をやめたが、天保十五年正月に、関東取締出役(八州廻り役人)が出張し、品川三宿の旅籠屋九四軒、食売女一、三五八人を捕え、残らず腰縄で、道中奉行跡部能登守(のとのかみ)(良弼)方へ引き立てたが、すぐに所預けとなって品川に帰された。見物人は群集し、折から雷雨が降り出し、前代未聞の光景であった。
先に食売女五〇〇人が許可されたあと、三宿で内割りをして、南品川宿に一五五人、北品川宿に一四三人、歩行新宿に二〇二人ときめてあり、さらに一軒ごとに定数があったが、手入れのあったときには、南品川では旅籠屋四〇軒で四一七人、北品川では二二軒で三八五人、歩行新宿では三二軒で五五六人で、平均すると一軒に一四人がいたわけである。
食売女の多くいたのは、南品川宿では百足(むかで)屋の二二人(定数八人)、虎屋と和国屋の二〇人(定数七人)、北品川宿では増本屋と池田屋の三四人(定数一二人)を筆頭に、布袋(ほてい)屋・伊勢屋・大和屋・新百足屋・武蔵屋・岩槻屋が二〇人を超えており、歩行新宿は相模屋の二九人(定数一一人)を筆頭に、坂本屋・伊豆屋・湊屋・うつ屋・広島屋・紅屋・明伏屋・島崎屋が二〇人を超えていた。
二十六日に捕縛、二十九日には一同道中奉行所へ呼び出されて即日判決が下り、旅籠屋九四人は、過人数を抱えおき、売女同様に仕立てて、衣類を花美にさせた罪で過料銭五貫文ずつ、名主・問屋は過料三貫文ずつ、年寄・組頭は急度叱(きっとしか)り、食売女一、三五八人は、主人の申付にまかせて、旅人の好みを求めるために花美な身なりをした罪で、急度叱りの刑に処せられ、食売女五〇〇人を超える分は、請人・人主方へ引き渡すことを命ぜられた(30)。
三宿では過人数の食売女を解放し、また三宿の食売女は、一宿に一六六人ずつになるように、平均させることを協定した。この事件は品川宿にとっては、明和元年に食売女五〇〇人が認められて以来の大事件であって、旅籠屋の衰微は全宿への打撃となったが、弘化二年(一八四五)には、食売女も南品川が二二六人、北品川が二〇七人等で計六六八人になっていて(31)、しだいに回復してきたことがわかる。
嘉永三年(一八五〇)に書かれた、西沢一鳳の「皇都午睡(こうとごすい)」には、次のように記している。
品川宿は東海道の咽首なれば、又陽気なる事此上なし。高縄より茶屋有て(案内茶屋也)品川宿の中央に小橋有り、それより上(かみ)は女郎銭店、橋より下(しも)は大店也。女郎屋は何れも大きく、浜側の方は椽先(えんさき)より品川沖を見晴らし、はるか向ふに上総(かずさ)・房州の遠山見えて、夜は白魚を取る〓火(かがりび)ちらつき、漁船に網有り、釣あり、夏は納涼によく、絶景也。(中略)女郎屋頗る多し。中にも土蔵相摸(どぞうさがみ)・大湊(おおみなと)屋など名高し。岡側の家は後(うしろ)に御殿山をひかえ、浜側は裏に海をひかえ、往来は奥州・出羽より江戸を過ぎて京・西国へ赴く旅人、下る人は九州・西国・中国・畿内の国々より行く旅人ども、参宮(伊勢)・金ぴら・大山詣り・富士詣(もうで)、鎌倉・大磯の遊歴やら箱根の湯治(とうじ)、参勤交代の大小名、貴賤を論ぜず通行すれば、賑わしきこと此上なし。表の間(ま)は板敷にて玄関構へ、中店は勘定場にて泊り衆の大名・旗本衆の名札を張り、中庭・泉水、廊下を架し、琴・三味線の音など聞へ、道中女郎屋の冠たるべし。名物は鮮魚をおもとし、品川海苔(のり)・柳鯲・白魚・貝のむき身の類。
(『新群書類従』一所収。)