食売女が遊女とかわらないものとなると「吉原細見(さいけん)」にまねて、遊女の評判や値段を記した『品川細見』も刊行された。嘉永五年(一八五二)の『品川細見』によれば、銀一〇匁の遊女は合わせて五三人、金二朱は四一人、以上は大見世(おおみせ)である。銀六匁が三八人、銀五匁が三〇二人、四匁が六五人、計四九九人、六匁・五匁・四匁は、それぞれ銭六〇〇文・五〇〇文・四〇〇文で払うが、六百文・五百文とはいわないで、六寸・五寸・四寸といい、六寸・五寸・を中、四寸を小見世といったという(『品川遊廓史』四四ページ)。街道筋の食売女は一夜銭二〇〇文が標準相場であったから、品川のは遊女なみというのであろうが、吉原に比べれば安価で、それだけに遊びやすかったのである。
食売女は親兄弟が貧しくて身売りした者が多く、身代(みのしろ)金を親たちが持って帰ったあとは、五年十年の年季を勤めて、その借金を返さなければならず、主人の気に入らなければほかへ住替(すみかえ)もさせられ、あるいは虐待された。
間広(まびろ)旅籠屋の食売女で座敷持になれば、八畳の間に次の間の四畳ぐらいはあり、小間(こま)旅籠屋の上級の者は一部屋はあったが、下級の者は相部屋であった。その境遇にたえかねて自殺や欠落をする者もあり、欠落をすれば身請人が借金を弁済しなければならず、死んでも葬式もしてもらえないのであった。なじみ客に身請(みうけ)される者は、まれな幸福者で、なじみ客の心がわりを怨んで死んだ女もある。
奉公するときの契約で、夏と冬とには主人が四季施(しきせ)といって、着物を一枚ずつ与えることになっていたが、四季施の着初(きぞ)めの日を祝儀日と称して、神棚へ神酒を供え、家内が集まって祝う習慣があった。ところが、食売女たちは遊客に金銭をねだって主人へ預けておき、それで衣類を求めれば主人は働き者とほめるが、規定どおり主人から四季施をもらう者には無慈悲な扱いをするので、食売女たちは四季施の衣類を着るのを恥として、手練手管(てれんてくだ)を弄し、祝着日ごとに衣類を買い求めるので、借金はますます多くなって苦界を抜けることができない。
主人はまた食売女の励みのためと称して祝着日(物日(ものび)紋日)を多くしたりするので、借財はかさみ、返済の見込みもなくなり、首くくりや水死をし、あるいは相対死(あいたいじに)(心中)をするようになったのである。天保二年(一八三一)に、代官の中村八太夫は、四季施を受ける受けないにかからわず平等に召仕い、祝義日を増さないように命ずるとともに、相対死をした者は寺院へ埋葬することを禁じ、今後は鈴ケ森の仕置場か死馬捨場へ捨てさせ、その罪状を世間へ知らせるようにすることを申し渡している(『品川町史』中巻七四三ページ)。
天保の飢饉のときには、二、三〇人暮しの家で米三、四升を粥(かゆ)にして、椀数や升(ます)数をきめおいて、それ以上は一切食べさせない無慈悲な者もあった(同上七四六ページ)。
品川宿の客は、芝山内の僧侶が五分、薩摩屋敷が三分、町人が二分であるといわれるほどに、僧侶や武士が多かったのが特徴で、川柳や狂歌のなかにもそれを詠んだものがある(32)。
品川の客にんべんのあるとなし(侍と寺)
品川へ猪(しし)と狼(おおかみ)毎度来る (猪は薩摩武士、狼は僧侶の代名詞)
女郎屋へ衣(ころも)で上る旦那寺
品川で口がすべると愚僧なり
品川の医者俳名は芝山なり (僧侶が医者のなりで登楼)
品川の客の国府は本ンの事 (薩摩武士の吸う煙草はほんものの国府(こくぶ)産)
品川の手取上布(てどりじようふ)をねだり出し (うでのよい飯盛は薩摩上布をねだる)
品川は本綿の外(ほか)は箱へ入れ (木綿の外は大事にする程度の客)
品川の衣桁股引(いこうももひき)なども掛け (股引をはいた男も客にくる)
股引の泊りもとるで下卑(げび)るなり
関札が立って品川下卑るなり (大名の休泊札が立つので遊里らしくなくなる)
品川は膳の向ふに安房上総
心待岸うつ波の音ばかり (ふられた客)
飯盛も夜中寝かせぬくつは虫 (宿馬のくつわの音がうるさい)
品川は鳥よりつらい馬の声 (馬の声で別れの朝が早くくる)
品川に居るに陰膳(かげぜん)三日据ゑ (旅の無事を祈って陰膳すえているのに本人は三日も品川に滞留)
江の島の十里こなたに三日居る (江の島へ行ったはずなのに)
水の無い川留め江戸の出口なり
仲間われ川崎泊り二、三人 (帰りには品川で遊ぶ約束だったが)
品川に丸き舟見て遊ぶ夜は
四角なひざをくずすもののふ 吉芳
浪の花見るも吉野や品川の
沖の帆ばしら一目千本 西独斎芳安
白壁のように化粧も品川や
土蔵相模の見世の遊女(あそびめ) 上野霞庵
食売旅籠屋では土蔵相模といわれた歩行新宿の土蔵造りの相模屋が有名であったが、幕末には北品川宿の岩槻屋佐吉が全盛をきわめ、横浜が開港したときには、横浜に異人相手の遊郭を作る中心人物となり、その妓楼を岩亀(がんき)楼と称し、宏壮かつ新規の建物で横浜の名物となった。