引手茶屋

775 ~ 780

遊郭まがいの食売旅籠屋が軒をつらね、数百千の女たちが客を呼んでいたのであるから、それに応じた稼業も成り立つたわけである。江戸から来て品川に入る手前の高輪(たかなわ)は、海に面した片側町で、房総の山々をも望む風景佳良の地であったから、早くから茶店がならび、遠近に旅立つ者の送迎の場所として知られていた。品川に食売女が多数公認されて、吉原を北国または北州・北狄(ほくてき)などというのに対して、品川を南国・南州・南蛮などと対比させるほどになると、高輪は車町(くるままち)から北町・仲町・南町と、一八町(約二キロ)もの間に百余軒の引手茶屋が並び、品川宿内にも茶屋が多くでき、遊客はここへ立ちよって酒食をし、それから茶屋の案内で食売旅籠屋へ来たのである。

 もともと品川宿は江戸に近いから大名の休泊や長旅の者が泊ることは少なく、多くは江戸の者が近郷の神社・仏閣へ参詣に出かけるとか、野がけ遊興の者が高輪町や宿内の水茶屋へ寄り、そこから案内されて休泊したのである。そこで旅籠屋のうちに、旅人(内実遊客)をつれてきた茶屋へ引手銭をいくらかやるものが出て、茶屋がそこへばかり案内をするようになると、ほかの旅籠屋も引手銭をやるようになって、いつか一般の習慣となった。その後は我れがちに増銭をして、ついには二五〇文ぐらいにせり上げて旅人を奪いあうようになり、旅籠屋間に不和の生ずるもととなった。ことに前々から、きまりの旅籠酒食代が、上下で銀一〇匁・銀七匁五分というなかから引手銭を出すために(銀一〇匁は銭一、〇〇〇文ぐらいか)、入費を差引くと利益がなくなって、年々借金ばかりが増加して身上を維持できなくなったので、安永六年(一七七七)に宿内で相談して、旅籠屋の出す引手銭の廃止をきめた。

 しかし旅籠屋業の盛衰は、宿内すべての地主・商人・職人にもかかわることであり、町奉行支配の高輪町の茶屋にも関係するので、支配の代官所へ願い出して、代官所で旅人引手銭廃止を命じた。その代わりに旅籠屋仲間改所を建てて、旅人一人について銭一〇〇文ずつを改所へ持参して、同所で当番の旅籠屋と店頭(たながしら)が取り調べて、宿内の身元のたしかな商人へ預けておいて、十一月晦日限りに勘定をして旅籠屋へ配当することにした。なお改所の費用は旅人一人につき一日に六文ずつの割で、改所取締の店頭へ渡し、過不足があっても仕切り勘定にした。これを六文銭といっている。

 ところが引手銭を止めたためか休泊者は減少し、茶屋からは引手銭の復活を願い出たので、同年十二月になって、旅人一人について刎銭(はねせん)一〇〇文のうちから二四文(一〇〇文は正味九六文であるから四分の一にあたる)ずつを茶屋へ渡すことにした。それより三三年間は旅籠屋数も減少しないできたが、文化になって、銭相場が下落して、以前には一両に銭五貫五、六百文ぐらいの率で旅籠屋酒食代をきめておいたのが、一両に六貫九百文か七貫ぐらいになり、旅籠屋困窮のために、同六年(一八〇九)に旅籠酒食代は時の相場できめることとし、茶屋の引手料も銀六分にした(『品川町史』上巻八四二ページ)。

 品川宿内の水茶屋は、弘化ごろには歩行新宿に三一軒、北品川に五軒あったが、高輪の茶屋と異なり、同一代官の支配下であったから、取締りはしやすかったが、高輪および宿内の茶屋と旅籠屋間には相互に協力しあう面もあったが、また相争う面もあった。茶屋が酒食を供するほかに、女芸者を置いて遊興の相手にし、遊女や食売女と変わらないようになり、「高輪のころび茶屋」といわれるほどで(「かくれざと」)、吉原や品川から営業妨害で訴えられ、高輪の女芸者十二、三人が召し捕えられたこともあった(『賤のおだ巻』)。文政十一年(一八二八)に、品川宿では三味線芸師の名目で女を抱えておいて、芸が未熟であればほかへ住替えさせるなど、食売女にまぎらわしいとして、勘定奉行から禁止されたのも、同じようなものである(33)。

 天保六年(一八三五)に、宿々取締りの役人が出役して食売女の風俗等を改めたときに、宿内の水茶屋六一人・芸師五〇人も取締りを受け、茶屋の妻・娘・下女および芸師らの衣類や髪かざりは質素な品を用い、旅籠屋へ立入るときはもとより、宿内通行のときにも目立つような風俗をしないこと。旅人が好んだからといって、往還通りの茶屋の表二階で音曲などをしないこと、などを申し渡された(『品川町史』中巻七五四ページ)。

 引手茶屋へ払う引手料はしだいに増加して、天保二年(一八三一)には銭五〇~六〇文から一〇〇文にも及び、さらに音物までやるようになったが、同年に支配代官所の取締りがあって、旅籠屋仲間で会所を建ておき、引手茶屋から案内をしてきた旅人の旅籠代について、会所から茶屋へ取集人を出し、旅籠屋からは旅人一人について銭一〇〇文ずつを出して積み立て、そのうち四八文(九六法で五〇文)は毎月五日に茶屋へ宿引料として渡し、残りの四八文は五節句に旅籠屋へ配当し、そのうちから会所の費用を出すことにした。ところが旅籠屋と茶屋とが馴れあって、会所を通さないで、茶屋へ引手料を多く払うものが出て、会所の費用も不足になったので、天保七年にまた規約を改めて、旅籠代は旅籠屋が毎朝直接に茶屋から集め、そのうちから一〇〇文と、諸雑費分を別に添えて会所へ出すことにした。不正を防ぐため旅籠屋仲間から順番に出勤をすることや、茶屋の払いが滞れば、旅籠屋との引合をことわることなどをきめた(『品川町史』中巻七五五ページ)。

 引手茶屋を通してきた旅人(内実は遊客)は、茶屋での酒食代はもとより旅籠代も茶屋へ支払い、茶屋から旅籠代を旅籠屋へ渡すのであり、旅籠屋での酒食分も茶屋の勘定となり、利益は茶屋のものとなったのである。もっとも、文化元年(一八〇四)の規定によれば、旅籠屋の酒食代のうち四分の一は世話料として茶屋から旅籠屋へ出すことになっていた(34)。引手料はたびたび規定をしたにもかかわらず、旅籠屋から、ひそかに増引手銭や音物をやり、あるいは食売女が引手茶屋や送ってきた下男へ贈り物をすることがあって、規定は守られなかった。

 旅籠屋は、食売女の有無で、食売旅籠屋と平旅籠屋とに区別されるが、間口の広狭で間広旅籠屋と小間(こま)旅籠屋という別もあった。小間旅籠屋は間口四、五間以下のもので、食売女のいるのはほとんど間広旅籠屋であった。品川宿では、弘化三年(一八四六)の「宿並地図」によれば、食売旅籠屋が九五軒、平旅籠屋が一六軒、木銭宿が一軒であった(『品川町史』上巻八二七ページ)。御用宿を勤めるのは間広旅籠屋で、月の上旬は歩行新宿、中旬は北品川宿、下旬は南品川宿と順番に勤めたが、大泊りのときには三宿ともに勤めた。前記の改所へ口銭を納めるのは食売旅籠屋が主であったから、改所付旅籠屋と改所外旅籠屋という区別もあった。そして食売女を置くことを許されたのは御用宿を勤めるためと理解されていたが、幕末になって公用旅行者の数が増して、休泊の度が多くなると、平旅籠屋も御用宿を勤めなければならなくなって、宿全体の疲弊がいちじるしくなったのである。

 1 『品川町史』上巻 八〇六ページ所収「新名主文書」

2 同上所収「御分間絵図御用宿方明細書上」

3 同上 八〇九ページ所収「差上申御請証文」

4 同上 八〇六ページ

5 同上 九一五ページ

6 『近世交通史料集』(四) 一ページ所収「東海道宿村大概帳」

7 『品川町史』上巻 八一四ページ

8 同上 八一六ページ

9 『近世交通史料集』(一) 六六三ページ「五街道取締書物類寄」

10 同上(四) 九ページ所収「東海道宿村大概帳」

11 『日本経済叢書』Ⅰ 五四六ページ所収「民間省要」中編巻之三

12 同上 五三八ページ

13 同上 五五六ページ

14 『近世交通史料集』(一) 六三一ページ所収「五街道取締書物類寄」

15 同上 六二九ページ

16 『品川町史』上巻 八一七ページ

17 大熊喜邦『東海道の宿駅と其の本陣の研究』四一ページ

18 新城常三『社寺参詣の社会経済史的研究』一二六ページ

19 宮本常一『日本の旅』一八七ページ

20 大島延次郎『日本交通史概論』二九四ページ

21 『徳川家康文書の研究』下巻之二 一二八ページ・『静岡県史料』第五輯

22 『近世財政経済史料』巻八 四〇三ページ所収「御触書古廿二」

23 同上巻三 一一一六ページ所収「憲教類典抄十」

24 『未刊随筆百種』所収の「遊女諸事出入書留」に、品川本宿・新宿千五六(ママ)人とある。千住には二百人とあり、ほかに板橋・内藤新宿にもいた。

25 『品川町史』中巻 七〇六ページ以下。事件の発端として、新吉原の市川という遊女が年季が明けて、跡年(あとどし)(御札奉公)のうちに暇を取って品川の松屋で遊女になったので、吉原の訴えで訴訟になり、市川の口から品川の食売女の過人数がわかったともいう。

26 内藤新宿はこのときには廃止されていたが、明和九年に再興されたときに一五〇人の食売女を置くことを許されている。このときの道中奉行の申渡し書によると、三〇年前には品川宿には一八〇軒、板橋宿七三軒、千住宿には七二軒の旅籠屋があったのが、当時はそれぞれ九〇軒・七軒・二三軒に減じていたという。

27 『未刊随筆百種』所収「岡場所遊廓考」・『品川町史』中巻 七一二ページ

28 文政九年十二月に中山道の蕨宿・日光道中の越谷宿・粕壁宿に対して、食売女の新規設置または増員を認めている、『近世交通史料集』(二) 一九〇ページ

29 『近世交通史料集』(二) 一八七ページ所収「五街道取締書物類寄」食売女の項。

30 『品川町史』中巻 七二五―七三〇ページ

31 同上 七三八ページ

32 今井卯木『川柳江戸砂子』・東京府荏原郡教育会読方科研究部編「郷土の文学的資料」などによる。

33 『近世交通史料集』(二) 二〇四ページ所収「五街道取締書物類寄」

34 『品川町史』中巻 七五八ページ