宿の財源

781 ~ 783

近世では、幕府でも藩でも予算を立てて、それに応じた徴税をするわけでもなく、支出についても必要に応じて支払いをし、予算や決算に関する記録は十八世紀後半になってあらわれるに過ぎない。町や村では明確な財源を持たないので、必要な事業を行なって、あとから軒別や持高割で徴収することが多い。宿の場合もそれに近いが、宿にはそれ自体で行なわなければならない運輸・休泊等の仕事があるから、それに応じた財政計画は必要である。

 宿財政の財源としては、第一に、宿の構成員の負担金がある。宿をつくるときには、宿内の街道に面した屋敷を分割して、そこに住む者に伝馬役(てんまやく)・歩行(かち)役を負担させるのが例であるが、馬や人足を出さない者は役金を出す。これが最も基本的な財源である。第二には、幕府の補助米がある。寛永十年(一六三三)からの継飛脚給米二六石七斗、寛文五年(一六六五)からの問屋給米七石がそれである。これはわずかのもので、使用目的が決められているので、財政上では通りぬけ勘定になる。第三に、幕府が宿財政を救済するために、人馬賃銭の一部を宿の収入とすることを認め、それを積み立てて一定額に達したときに、それを貸付けて、その利足を宿の収入としたものがあり、刎銭溜(はねせんたまり)金などと呼ばれている。そのほかにも享保年中に幕府が馬買代・馬飼料・人足扶助金として宿に貸付けた金を元金にして、その利足を収入にしたものや、寛政年中に宿方で積み立てた金の利足などがあるが、これらは、いずれも代官所または江戸馬喰町(ばくろちょう)の御用屋敷で預かって運営をしていたもので、これらを貸付金助成制度ということができる。第四には、火災・凶作等にあたって、幕府が臨時に与えた救済の金穀がある。これには全く無償で給与したものもあるが、年賦で返済させたものもある。これは通常の収支勘定とはやや性質が異なるので、後にまとめて述べることにする。第五には、以上の諸収入で不足のときに、旅籠屋その他が負担するもので、これには一定の限度がなく、不足分はすべて軒割りなどで徴集する方法をとっていたので、収支計算は均衡を保っていたことになる。


第188図 品川地域の地図