これより二五年後の文政二年(一八一九)の収支勘定になると、馬や人足を出す家がなくなり、すべて役金で納めるようになっているから、金額はいちじるしく大きくなっている。
収入(銭七貫文を金一両に換算、永一文未満は切捨、百分比の一%未満のものの数字は省略。)
両 文
七四二・〇八三 伝馬役屋敷役金
(四三・八%)
地子御免一万五〇〇〇坪の配分を受けている馬役百姓一三七軒より、一軒につき五両四一六文六分七厘ずつ。
三五九・一二五 歩行役屋敷役金
(二一・二%)
歩行役一〇二軒より、一軒につき三両五二〇文八分三厘三毛ずつ。
二三・〇二〇 御状箱持歩行役屋敷役金
(一・四%)
南品川宿の八軒半より、一軒につき二両七〇八文三分三厘三毛ずつ。
四・五〇〇 枝郷の役金
地子御免外の枝郷高四六石三斗余より取立分。
一六・二五〇 迎番三人給分
(一%)
三宿の旅籠屋より受取分。
二七・五四二 御用宿番給料
(一・六%)
三宿の旅籠屋より受取分。
四三三・三六一 人馬元賃銭上り高
(二五・六%)
七九・六八七 賃銭割増二割分 (宿・助郷人馬の増賃銭二割分は一旦宿の収入とし、あとでその半分を出入馬に渡す。)
(四・七%)
一〇・一八四 賃銭割増二割のうち稼馬一割分 (稼馬のときは半分の一割分を宿の収入とし、半分はすぐに稼馬に渡す。)
両 文
計一、六九五・七五五
支出
両 文
四三三・三三三 宿馬八〇疋持立役金
(二五・三%)
一疋につき五両四一六文六分七厘ずつ。
二四六・四五八 宿人足七〇人持立役金
(一四・四%)
一人につき三両五二〇文八分三厘三毛。
三八・七二九 御状箱持人足持立役金
(二・三%)
一人につき三両五二〇文八分三厘三毛、一一人分。
九七・五〇〇 宿役人・下役給料伝馬役引
(五・七%)
南北名主二人・問屋二人・年寄四人・帳付四人・馬指六人、計一八人、一人につき五両四一六文六分七厘ずつ。
二一・一二五 宿役人・下役給料歩行役引
(一・二%)
歩行新宿名主二人・帳付二人・人足差二人、一人につき三両五二〇文八分三厘三毛ずつ。
一五・〇六六 南北両宿下役増給料
南北両宿帳付二人、一人につき二両一六六文六分七厘ずつ、馬指六人、一人につき一両八三文三分三厘三毛ずつ。
一五・九二六 歩行新宿帳付・宛番増給料
帳付二人、一人につき四両六二文五分ずつ。人足宛番二人、一人につき一両八九五文八分三厘三毛ずつ。ほかに右四人へ人足雇立増給料、一人につき一両ずつ。
一四・三五四 往還払方三人給料
南北二人、一人につき五両四一六文六分七厘ずつ。新宿一人三両五二八文八分三厘三毛。
一六・二五〇 迎番三人給料
御用往来の方々出迎番、一人につき五両四一六文六分七厘ずつ。
一八・九五八 北品川宿問屋場地代金(同宿より出す。)
(一・一%)
五・三三三 日〆帳認(したため)給料
六九・九八三 問屋場諸入用・破損修覆入用
(四・一%)
南北二ヵ所の問屋場の筆墨紙・炭・油・蝋燭その他買上品、修覆費。
一五・九四一 宿駕籠仕立その他諸入用
宿駕籠の仕立代・損料・桐油・琉球糸立・莚・傘・挑灯その他。
一四・八三三 御状箱継所書役二人給料
南北の名主方にある二ヵ所の御継所の書役、一人に七両四一六文六分七厘ずつ。
六・五〇〇 御継所定使二人給料
一人に三両二五〇文ずつ。
三六・二六一 御継所諸入用
(二・一%)
筆墨紙・はっぴ・皮籠・風呂敷・高張挑灯・炭・油・蝋燭その他買上品、破損修覆費。
三・五〇〇 本陣手代給分補助
九年前本陣類焼再建のときから支出。
六・一〇〇 馬雇銭
立馬八〇疋のほかに臨時御用の雇立入用。
三六・七六三 人足雇銭
(二・一%)
立人足七〇人・御状箱持一一人のほかに御用状・先触持送人足および臨時継人足。
三六・二七四 臨時宿入用向・御用物泊り蔵敷等
(二・一%)
宿役人ら出府中の江戸宿飯料、御用物泊り蔵敷入用、宿村送り病人継合入用等。
一〇・二〇一 宿役人・下役出府入用
問屋・年寄・下役の者が、道中奉行所・支配代官所の呼出で出府のときや、御用物に付添い出府の折の入用。
二五・〇七一 御用宿番銭
(一・五%)
支配役所その他出役の者の御定宿一軒をきめておき、その損料および手当の分。
三・九九九 大豆四石八斗代
惣百姓どもへ例年十二月中に渡す分。
一二五・六九一 助郷人馬へ渡す元賃銭高
(七・三%)
一二・一三三 助郷人馬へ渡す一割増の分
三〇七・六六九 宿人馬へ渡す元賃銭高
(一八%)
二八・三三五 宿人馬へ渡す一割増の分
(一・七%)
四九・四〇三 宿方へ受取り、それぞれ渡方
(二・八%)
増賃銭一割分を宿方へ受取り、うち一六両一二四文余は一割取立給料および右銭の蔵敷。三三両二七八文は惣人馬役の者へ配分、そのうち一〇両一八四文は稼馬の一割分。
両 文
計一七一一・七八九 (一両は銭七貫文として換算)
不足 一六・〇三二 伝馬役・歩行役の百姓が軒別割に出金
(『品川町史』中巻一六二ページ)
支出の分では、人馬の持立役金が四〇%に達しているが、これは寛政度では人馬を提供する家があったので、この分は収支ともに計上されていなかったものである。また助郷人馬や宿人馬の賃銭の収支が三〇%を占めているが、これも寛政度には計上されていなかったものである。人馬賃銭は出人馬へ渡されるものであるから宿の財政には直接に関係なかったものであるが、割増賃銭がつき、その一部が宿の収入になるようになってから、宿財政にも組み入れられたのである。すなわち文政二年からは一〇年季で二割の割増賃銭が認められているが、元賃銭は全部宿人馬または助郷人馬へ渡す。宿人馬のときには、二割増のうち一割は宿の収入とし、一割は宿人馬へ渡す。助郷人馬の場合は、一割は宿の収入とし、一割は助郷村へ渡す。したがって、純粋に宿の収入となったのは、四九両余(二・八%)であって、それも一割取立給料と蔵敷を引いた残りは人馬役の者へ配分しているのである。