天保十年の収支勘定

789 ~ 800

さらに二〇年後の天保十年(一八三九)の「宿賄元払勘定帳」によると、別の財源が加わってきている。

        収入   (銭六貫八〇〇文を金一両に換算、他は同前)

一、御手当米金

米二六石九斗   継飛脚給米

        寛永十年三月より年々下付

米七石      問屋給米

        寛文五年より年々下付

二、助成御貸付利金

    両   文

  四七・二五〇     馬買代・馬飼料・人足扶助金利足

   (三%)

享保年中に元金四七二両二分を下付、それを貸付金として年一割の利足を支配代官所より下げ渡す。

  四六・一六〇     刎銭溜貸付金利足

   (二・九%)

人馬賃銭三割増刎銭溜の分五七七両を安永年中に貸付金として、一割の利足のうち二分は本陣・脇本陣へ下付、八分を宿方へ下付。

  一三〇・       人馬持立金利足

   (八・一%)

寛政年中に宿方より願い出して積立て、貸付金として利足を加え、元金一、三〇〇両とし、年一割の利足を下付。

  六四・        病難極貧者救助金利足

   (四%)

       宿方より積み立て元金八〇〇両とし、貸付金として年八分の利足を下付。

以上は幕府の手で貸付金として運用して、利足を下付するものである。

三、宿・助郷刎銭

    両   文

 一八〇・三四七

  (一一・二%)

天保十年分の宿・助郷の人馬賃銭五割増のうち、宿方へ下付の二割五分と、宿人馬へ渡すべき二割五分のうちから一割を備えとして宿方へ受取った分。

四、旅籠屋その他より取立金

  三九・三五七   食売旅籠屋出金

  (二・五%)

食売旅籠屋七一軒(南品川二九軒、北品川一五軒、新宿二七軒)より取立てて往還諸入用に充足するもの。

一、〇八九・七六一  伝馬役・人足役役金

  (六七・九%)

       南品川宿 三九四両五〇〇文

        伝馬屋敷六九軒半より五両宛、歩行役屋敷八軒より二両七五〇文宛、小役屋敷二五軒より一両宛。

       北品川宿 三六五両三七五文

        伝馬屋敷六七軒半より五両宛と歩行人足二人給分六両八七五文、小役屋敷二一軒より一両宛。

       歩行新宿 三一八両五〇〇文

        歩行役屋敷九八軒より三両二五〇文宛。

       四ヵ寺門前 一一両二八五文

        南品川の海晏寺・海雲寺・品川寺・長徳寺門前町より取立。

   八・五〇〇    枝郷等取立金

北品川宿地内入谷の百姓から四両五〇〇文、同地内八ツ山下道普請拝借返納分四両を同宿伝馬役の者より取立。

米三三石九斗

計      両   文

金一、六〇五・三七五

        支出

一、御定人馬持立方

    両

 四〇〇・       南北両宿伝馬給分

  (二〇・三%)

        一疋に五両ずつ、八〇疋分

 二六〇・       新宿歩行人足給分

  (一三・二%)

        一人に三両二五〇文ずつ、歩行人足六六人分と先触・御用状持送り人足一四人分

        文

  一一・三八八    門前歩行人足給分

        一人に三両八四六文四分七厘三毛ずつ、四人分。

  三五・七五〇    御状箱持給分

  (一・八%)

        一人に三両二五〇文ずつ、一一人分。

  四六・       小役人足給分

  (二・三%)

        助郷人馬触状・近村へ御用状持送り人足、一人に一両ずつ、四六人分。

    石 斗

 米二六・九      継飛脚給米

        伝馬および継飛脚役を勤める者へ配分。

二、朱印・証文・無賃人馬の賄銭

    両   文

  三六・九五五    朱印・証文その他無賃分賄銭

  (一・九%)

       馬一疋に銭一〇〇文ずつ、南北両宿で負担。

  四〇・       伝馬請役補助金

  (二%)

       伝馬請役の者が困窮するので一疋に永五〇〇文ずつ、八〇人分。

   八・六一五    伝馬請役大豆代

       暮に一疋につき大豆七斗ずつ渡す代金。

三、問屋・年寄・問屋下役給金

 米七石        問屋給米

       南北品川宿問屋二人・年寄二人・名主二人、計六人へ配分。

 一〇〇・       伝馬役役引金

  (五・一%)

南北両宿名主二人・問屋二人・年寄二人・諸入用請払役二人・御状箱継所賄人二人・帳付四人・馬指六人、計二〇人の伝馬役を役引一人五両ずつ。

  二二・七五〇    歩行人足役役引金

  (一・二%)

歩行新宿の名主一人・年寄一人・諸入用請払役一人・帳付二人・馬指二人、計七人の歩行人足役を役引、一人三両二五〇文ずつ。

  三四・五〇〇    南北両宿役人増役料

  (一・八%)

南品川宿名主一人・問屋一人に二両ずつ、年寄一人に一両、北品川宿名主一人・問屋一人に四両五〇〇文ずつ、年寄一人に二両五〇〇文、両宿御状箱継所賄人二人・帳付四人へ二両ずつ、馬指六人へ一両ずつ、前項の役引のほか増役料および給分。

  一三・       新宿宿役人増役料

新宿の名主人一人へ二両、帳付二人へ三両七五〇文ずつ、人足指二人へ一両七五〇文ずつ、増役料および給分。

  一一・五〇〇    南品川宿名主後見人役料等

       南品川宿名主後見人役料七両。諸入用請払役一人へ三両、御状箱継所賄人一人へ一両五〇〇文。

   七・      歩行新宿書役一人給分

  二四・       出迎役三人給分

  (一・二%)

       南北両宿は七両ずつ、歩行新宿は一〇両。

  一二・五〇〇    御状箱継所定使二人給分

  一五・       本陣守役の手当

       三宿とも五両ずつ負担。

   三・五〇〇    本陣手代二人給分補助

       三宿とも一両と銀一〇匁ずつ負担。

   五・       帳付六人の日〆帳認給料

    ・五〇〇    歩行人足給金取立人一人手当

  二五・五〇〇    人馬賃銭割増取立世話料

  (一・三%)

       問屋二人・帳付六人・人馬指六人へ、三宿とも八両五〇〇文ずつ負担。

四、問屋場等諸入用

    両   文

  九五・八〇六    問屋諸入用・破損修覆入用

  (四・九%)

筆墨紙・蝋燭・水油・炭・茶、御用宿駕籠仕立代、桐油・琉球蓙・糸立・傘等、畳替・破損所修繕費、南品川が三三両六九三文、北品川が三一両一一八文、新宿が三一両三三文の負担。

  五三・三六九    御状箱継所諸入用

  (二・七%)

筆墨紙・蝋燭・水油・炭・茶・革籠・法被・風呂敷・高張挑灯、日限付き御用物の延着、六郷川支のときの入用、御継所破損所修繕費、南北両宿にて負担。

五、御用宿、御三家その他休泊賄足銭

    両   文

 一三五・三八五    御定宿賄足銭

  (六・九%)

貫目改所出役の勘定・普請役、公家往復のとき出役の勘定・普請役賄方手付・手代・町方与力・同心方、その他御用向の支配役所手付・手代・関東取締出役の休泊は旅籠屋ではなく御定宿をきめておき、または寺院へ頼んで出張賄等をする節の足し銭。

 一三四・三八二    御用宿賄足銭

  (六・八%)

木銭・米代払の御用宿、御茶壺付添役人・二条・大坂の番士その他、木銭に准じた安旅籠代を払う者の御用宿を食売旅籠屋へ申付けたときに、木銭・安旅籠代御払の外、賄入用足銭平均を見積り、一泊上一人銭三〇〇文、下一人銭二〇〇文、一休上銭一四八文、下一〇〇文の積りで補助、南品川が四〇両五八八文、北品川が四四両六三九文、新宿が四六両六九八文の負担。

六、御茶壺・御進献その他御用物継立入用

    両   文

  一四・六七七    宿下役人手当

参向の公家・御茶壺等の時に出す見送りの袴着および宰領への手当、御用物・先払金用人へ付添の宰領への手当、その他諸入用、南品川が四両七〇二文、北品川が五両三六八文、新宿が四両六〇七文負担する。

七、人馬継立方につき宿役人他出入用

    両   文

  四二・三九九    出府その他入用

  (二・二%)

道中奉行所・支配代官所・貫目改所等の用で出府のとき江戸宿飯料等、南北品川より一五両六六七文ずつ、新宿より一一両一八五文出す。

八、貫目改所諸入用等

    両   文

   八・六六七    貫目改所役宅地代

貫目改所定詰出役の役宅地代一二両のうち出役より銀二〇四匁を払い、不足分を宿方で負担、一宿二両八六七文ずつ。

  一七・八〇〇    出役方水夫人足賃

       出役へ水夫人足一日一人出す賃銀一日銀三匁(永五〇文)、一宿銀三五六匁ずつ。

  一六・〇四〇    出役役宅修理費

役宅関係の費用の他に宿村送り病人の継立費用なども含む。南品川より六両三〇二文、北品川より四両九九三文、新宿より四両七四五文を出す。

  二五・       高輪町空地冥加永

  (一・三%)

高輪町海辺空地を御用物等休泊のときの非常持出場として確保しておくため、三宿より八両三三三文ずつ。

九、馬持立金等配分金

    両   文

 二八七・六六〇    馬買代・馬持立金等

  (一四・六%)

       収入の部の(二)助成御貸付利金の四口分を伝馬・歩行役を勤める者へ配分するもの。

一〇、諸拝借返納

    両   文

  二一・二三三    類焼拝借金返納

  (一・一%)

文政四年(一八二一)宿方惣類焼のとき支配役所より二、〇〇〇両を、一〇年据置き一五ヵ年賦無利足で貸付けたが、そのうち問屋場普請金・御状箱継所二ヵ所および帳付六人・御継所書役二人・人足指馬指八人・迎番三人・馬請役の者の拝借金三一八両を宿持にして年々返納分。

   四・       往還普請金拝借返納

北品川の八っ山下往還道破損所の修理費一〇〇両を文政十年に支配役所から借りて二五ヵ年賦で返納分。

米三三石九斗

計      両   文

金一、九六九・五六六(前記金額の合計は一九九二両余で、この数字と合わないが、百分率はこの数字をもとにした。)

 不足三六四・一九一

この不足金は次のように補う。

     両   文

  二二九・八〇八   伝馬役・歩行役の者から軒別に出金

  一三四・三八一   食売旅籠屋より出金

(『品川町史』中巻一六七~一八〇ページ)

 (この帳面には、金・銀・銭の三種の単位で示されているが、銀六〇匁または銭六貫八百文を金一両に換算して、すべて金単位で示したので、若干の誤差はある。)

 幕府から貫目改所の経費は六五両(享保六年より三二両)ずつ下付されていたのであるが、収入の部には全く出ていない。別の会計になっていたものか、しかし改所の支出金はすべて計上されているようである。また、商人荷物の口銭や問屋庭銭の類の収入は全くなかった。

 支出で大きいのは人馬持立に関するもので、これらが全体の三分の一以上に及んでいる。御用宿等の休泊の賄足銭(まかないたしせん)も一四%近いが、これは御三家や支配関係の者に限られている。外の宿では幕府役人の御用宿にはすべて足銭(たしせん)を出していたので、その額も多かったが、品川宿では宿(やど)を勤めた旅籠屋の負担にしていたので、その分は金額も不明である。支出の大部分は伝馬役・歩行役の屋敷の所有者にかかったが、また食売旅籠屋への賦課金も別途に徴収されていた。

 収支はすべて三宿一体として行なわれていたのではなく、全宿にかかわるものと、三宿に分けられるものとがあったから、三宿ではまた別に収支勘定をする必要があり、資料編には南品川宿の勘定帳がいくつか収録されている。

 支配代官所の役人、関東取締出役などの休泊のほか、幕末になると海辺警備のために絶えず諸役人が往来または滞在をし、その足銭は急激に増大し、安政五年(一八五八)七月から翌六年六月までの間に五二日の品川宿出役があり、旅籠代上が二五〇文から二〇〇文、下が二〇〇文から一五〇文のところ、木銭・米代だけの支払が多くなり、その不足額だけでも四二〇両に達し、その他にも無賃の人馬の手当など、宿入用はおびただしい額に達したのである。

 それを支弁することができたのは、食売旅籠屋が多く、それに関連する営業も盛んであったためであるが、これらも常に繁栄をつづけたわけではなく、天保改革のころになると貨幣の改鋳で貨幣価値が下落した上に、旅人(遊客)の数も減じたので、同十二年(一八四一)八月に食売旅籠屋では、物日・節句仕舞・惣花などと称して旅人に出費をかけることを止めにするとともに、酒食旅籠代を、これまで銀一〇匁(一両の六分一)であったものを金一分(一両の四分一)に、金二朱(一両の八分一)であったのを三朱に、五割の値上げをすることをきめた(『品川町史』中巻七二一ページ)。

 文久三年(一八六三)には将軍の上洛などにより支出は増大する一方であって、それにつれて旅籠代も逐次値上げをしたが、慶応三年(一八六七)正月には更に増額の取極めをした(同上)


第189図 月の岬(広重五十三次)

間広旅籠屋

  食売女一人    これまで銀一三匁であったのは二〇匁、一〇匁であった分は一五匁

  無部屋の女の分  一〇匁であったのを一二匁

  揚女と唱える分  これまでどおり金二朱

小間旅籠屋

  食売女一人    銭八百文・七百文であった分は金二朱と銭二百文

  揚女       銭六百文であったのは金二朱

南品川三丁目旅籠屋  これまで通り銭五百文

宿引料  間広旅籠屋は旅人一人につき銀一匁、小間旅籠屋は銭七二文ずつ水茶屋へ渡すこと。

 品川宿は一般の旅行者の休泊が少なく、江戸の人口が遊興に赴き、それによって宿の経済が成り立っていたので、食売旅籠屋の盛衰が宿財政にも大きな影響を及ぼしていたのである。ことに慶応二年十二月の大火では惣家数一、六一四軒のうち九九二軒が焼け、翌三年十二月には薩摩屋敷の焼打事件に関連して、薩摩藩士によって放火され、家財を持ち出すこともできずに、わずかに命を助かった者が多かった。その翌年には明治維新となり、問屋も廃止され、つづいて宿駅制度の廃止となり、品川宿の運命も大きな転換をみたのである。