宿の救済

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幕府では宿駅の疲弊を救うために救助金の下付または貸付などを行なっているが、品川宿に対してもしばしば救済をしている。江戸日本橋の大伝馬町・南伝馬町の者が元文四年(一七三九)に道中奉行へ報告したものによると、次のごときものがあった。

一、米二六石一斗八升 寛永十年(一六三三)より継飛脚給米として年々下付

一、銭一〇〇貫文   寛永十三年、道中銭高直につき下付

一、米六六五俵    寛永十四・十五年島原の乱による上下御用を勤めたため下付

一、米二〇〇俵    同十九年飢饉につき御救拝借

一、金五〇〇両    同二十年宿々困窮につき御救拝借

一、銭二〇貫文    正保四年(一六四七)長崎御用を勤めたため下付(ポルトガル船来船)

一、金二〇〇両    明暦二年(一六五六)類焼拝領

一、金五〇〇両    万治三年(一六六〇)宿々困窮につき下付

一、米二〇俵     寛文五年(一六六五)より、問屋・名主役料として下付

一、米七〇〇俵    寛文八年困窮につき御救拝借

一、米七〇〇俵    寛文九年困窮につき拝借

一、米七〇〇俵    寛文十年困窮につき拝借

一、銭一、〇〇〇貫文 延宝二年(一六七四)宿々困窮につき御救拝借

一、金三〇〇両米五〇〇俵    延宝四・五年困窮につき御救拝借

一、金三〇〇両    延宝八年風損につき御救拝借

一、金三七八両    元禄十三年(一七〇〇)品川宿類焼につき御救拝借

一、金二〇両     同年名主一人小屋掛ケ料拝借

一、金一七三両    元禄十四年問屋役所普請につき拝領

一、金七四八両    元禄十五年品川宿類焼につき御救拝借

一、金一四一両    同年冬類焼につき拝借

一、金二二〇両    同年役馬飼料として拝借

一、金八〇両     同年継飛脚御状箱賄所普請金として名主四人拝借

一、金三三七一両   品川宿度々類焼につき元禄十六年春御救として家作料拝借

一、銭八〇〇貫文   宝永元年(一七〇四)御救拝借

一、金二〇〇両    同年御救拝借

一、金一一七両    正徳二年(一七一二)御救拝借

一、金八〇両     同年継飛脚御状箱賄所普請金として名主四人拝借

一、金二二〇両    同年夏馬飼料拝借

一、金八〇両     享保三年(一七一八)継飛脚御状箱賄所普請金として名主四人拝借

一、金四五〇両    享保四年火事拝借

一、金三〇〇両    享保六年火事拝借

一、金三八〇両    同年朝鮮人来朝の節拝借金

一、金五〇〇両    享保十年扶助金として下付、その金を代官・地頭が預かって貸付け、利足一割五分を宿へ下付するもので、天保十年の宿賄勘定帳では元金四七二両二分で、利足一割となっていたもの。元金・利率の変動の年月は不明である。

一、金四〇〇両    享保十一・十二・十四年の火事拝借

 下付・拝借の米金については、「御伝馬方旧記」に享保十八年のものと、元文四年のものとが収められているが、若干の相違がある。ここへは元文四年のものを主にして掲げた。なお享保六年までのものは、九分の一ほどを返納した享保十一年に、残金五、〇〇〇両ほどを五〇ヵ年賦で上納することを許され、同十一・十二・十四年の分は一〇ヵ年賦または七ヵ年賦の返納である(1)。

 このあとの拝借金は明細を欠くが、文化九年(一八一二)以降の分で知られるのは次のとおりである。

一、金五〇〇両    文化九年類焼拝借

一、金二、〇〇〇両  文政四年(一八二一)類焼拝借

一、金七二両     同年金銀引替につき輸送手当

一、金五〇両     同五年同右

一、金三四両     同六年同右

一、金六三両     同八年同右

一、金二二両     同九年同右

一、金一〇〇両    文政十年八っ山下道路普請費として拝借

一、金一〇〇両    板橋自普請所入用拝借

一、金二七五両    天保五年(一八三四)類焼拝借

一、金八七両     天保十一年金銀引替につき輸送手当

一、金三九二両余   天保十二年類焼拝借

一、金一四五両余   天保十三年類焼拝借

一、金二六二両余   嘉永元年(一八四八)類焼拝借

一、金二〇〇両    同年脇本陣類焼別拝借

一、金二五〇両    同年類焼旅籠屋拝借

一、金五二両余    嘉永五年類焼拝借

一、金七一両余    同年脇本陣拝借

一、金一〇〇両    嘉永六年脇本陣家作入用拝借(2)

 このほかにも多くあったことが推測され、享保二十年には波除石垣普請金として二、〇〇〇両の貸与があり、また本陣・脇本陣へは別途の類焼拝借金も出ているが、幕府としては宿駅が維持できなくなれば、その運輸・通信等の機関が崩壊することになるので、通常の農村に対するのとは異なって、かなりの補助をしていたことになるが、拝借金は年賦返納を要求されるわけであるから、宿としてもまた負担を重ねていくことになったのである。