品川の農業

807 ~ 811

江戸時代の品川区は品川宿や猟師町を除くと純然たる農村であったが、自然の条件はかならずしも恵まれてはいなかった。目黒川・立会川流域の平坦地には水田が開かれたが、大部分は丘陵性の台地で畑が多く、天水(湧水・流水)によって耕作していた。『新編武蔵風土記稿』に荏原郡の村々は高低の丘つづきで、田畠原野山林が多く、土質も野土・黒土なので穀物によろしくないと記され、品川領の各村はいずれも水田より陸田が多く、土質は砂まじりで旱損のおそれがあると述べられている。南品川宿の西にある二日五日市村は、「地に高低あり、土性は砂石錯(まじ)り、高き処は野土赤土交われり。旱損多き地なれど、又大雨あれば目黒川溢れて水損す」という状態で、旱害ばかりか水害にも悩まされていた。

 このような土地柄であったから、耕地が急激に拡大した近世前半期において、灌漑用水の開鑿(かいさく)が切望され、品川用水・三田用水が引かれるに至ったのである。

 さて、当時の農業は貢租のための稲作を第一にしていたことはいうまでもないが、農民の生活を維持するために麦・粟・稗・大豆等の雑穀類が栽培され、蔬菜類も農民の自家消費用以外に、都市に供給する販売作物として作られた。江戸近郊では葛飾郡東葛西(かさい)領小松川辺に産する小松菜や、豊島郡練馬村の練馬大根等が有名である。

 品川の農作物は、元文二年(一七三七)七月の品川宿「村指出シ帳」に「一、田方は一毛作で麦は作っていない。稲はえいらく・松ノ尾・ゑひ・こぼれ餅・かさ餅で、早稲(わせ)・中稲(なかて)・晩稲(おくて)ともしつけている。一、畠作は大麦・小麦・刈大豆・粟・稗・蕎麦(そば)・菜・大根・茄子・小角豆(あずき)の類を作っており、たばこや染草は作っていない」と記されている。このころ水田の二毛作が各地でおこなわれ、裏作には麦が作られたが、品川の水田は米のみであった。えいらく・松ノ尾等は稲の種類であろう。畠では雑穀類・蔬菜類が作られ、当時商品作物として全国各地で栽培されるようになった煙草や、染料となる染草は作っていなかった。

 文政のころの品川宿の農作物は「宿差出明細帳写」に米・麦・大豆を作り、その外特別多く作るものはないといっている。天保十四年(一八四三)三月の「宿方明細書上帳」には、作物に米・麦・大豆・粟の類で、米は中稲・早稲を主に仕付け、

田 一反につき 種籾  九升位

畑 同     麦種  一斗位

同 同     小麦種 七升位

同 同     大豆種 五升位

同 同     粟種  四合位

と反あたり播種量を示している。また『東海道宿村大概帳』に品川宿およびその周辺の村々とも「五穀之外時々の野菜を作」るとある。同書によると、大井村では人参を多く作っており、「品川葱(ねぎ)・大井にんじんとて比所の名物なり」といっている。また戸越村周辺では筍を産した。これは戸越村に別荘を持つ廻船問屋山路次(治)郎兵衛勝孝という者が寛政年間(一七八九~一八〇〇)薩摩藩上屋敷を通じて、薩摩藩の孟宗竹を入手し栽培したのがはじまりであるといわれ、次第に付近の農家にひろがり、このあたりの重要な特産物になった。

 肥料は田方は下肥や磯草・干鰯(ほしか)の類、畑は下肥のほか灰や下水等を用いている。猟師町や磯付の村々で藻草をとって田畑の肥料としたことはあとで述べる。干鰯等の魚肥が使われだしたのは一般に近世中期以降であるが、これら購入肥料の投下によって、地味の悪さを補い、生産力を高めることができた。

 下肥は都市周辺の農村の重要な肥料で、ことに蔬菜類の栽培に使用された。江戸周辺の農村では武家屋敷や町家と契約し、屎尿(しにょう)を汲取らせてもらう代償として下肥料(下掃除金)を納めた。これは現金の場合もあるが、茄子や大根等現物で納めることもあった。借家人には下肥を売る権利はなく、家主または差配人の所得になった。

 品川宿では天保十四年(一八四三)下肥料の価格をとりきめているが、平店(ひらだな)は金一分につき一五荷、旅籠屋は金一分につき二〇荷で、旅籠屋の方が安くなっている。同時に桶(おけ)の大きさを一荷四斗四升の積りとし、村名主が桶に焼印し、焼印鑑を一枚宿方の名主へわたすことになっている。

 下肥の商品価値が上がってくると仲買人が登場する。とくに河川の通ずるところで営業し、船に肥桶を積んで遠隔地まで運んだといわれる。

 品川では中延村の鏑木(かぶらき)与兵衛が下肥の仲買をしている。同家史料によると、浜松藩水野家(水野忠邦の家、のち山形へ転封)の諸屋敷の下肥を農家にうりさばいて利益を得ていたことがわかる。水野家の屋敷は、忠邦時代は鉄砲洲(てっぽうす)に上屋敷があり、西丸下にも屋敷が与えられ、ほかに三田・青山等に下屋敷があったが、のちに三田の屋敷を上屋敷としている。これら各屋敷の下肥のほか、廐肥(きゅうひ)も「御廐分(おうまやぶん)」あるいは「御馬何匹分」として取引されている。下掃除金は普通一年契約で、盆暮に半分ずつ納めたものらしい。喜多見村・小山村・荏田(えだ)村・宇喜多(うきた)村・衾(ふすま)村・深沢村等、江戸西郊の農家のほか小松川・行徳(ぎょうとく)の農家とも取引している。下肥の仲買によって財をたくわえた鏑木家は、同時に金融業も営んだらしい。天保六年(一八三五)から明治三年(一八七〇)までの「利金請取控」が揃っており、そのなかに浜松水野家をはじめとして大名・旗本の名が多くでてくる。水野家では天保八年(一八三七)に元〆役所から納めた金が二四一両に達している。この「利金」がどのような性格のものかはっきりしたことは判らないが、借金の利子あるいは元利を合わせたものと考えることもできようか。幕末期には、水口藩加藤家・丸亀藩京極家が多額の「利金」を鏑木家へ支払っている。下肥取引で諸藩の勘定方とつながりができて、大名貸をおこなうようになったのかもしれない。その場合、下肥そのものを抵当にしたことも考えられる。


第191図 「浜松様下掃除金取立帳(天保12年12月)」(鏑木家文書)

 この下肥を利用して江戸近郊農村では、商品作物としての蔬菜作りに力を入れ、品種の改良につとめ、美味で新鮮な野菜を消費者に供給したのである。なお野菜は洗って出荷されていた。

品川宿では

神変(じんべ)池  長さ二間半  横一間

権之池  長さ一間半  横一間

清水   長さ二間   横二間

の三ヵ所の溜井を、もっぱら前栽物(せんざいもの)の洗場として利用していたことが、文政七年(一八二四)の「宿差出明細帳写」により知られる。