品川用水の開設

811 ~ 815

前節で述べたごとく、旱害に苦しむ品川領宿村の要望で灌漑用の品川用水が開設されたのは寛文七年(一六六七)のことである。それまでは湧水と流水と天水によって、ようやく農耕を維持してきたのである。のちに前栽物の洗場につかわれた溜井は、天水をたくわえた溜池の名残りであろう。

 品川用水の創設に関して『品川町史』中巻、および『品川用水沿革史』は「品川用水明細書」という史料によって、品川用水は最初から灌漑用水として開鑿されたものでなく、寛文二年(一六六二)、肥後熊本藩主細川越中守が、品川領戸越・蛇窪両村入会地に抱屋敷四万五〇〇〇坪を拝領し、庭内の泉池用に引いたものがその前身であると記述している。

すなわち、寛文三年(一六六三)から四年にかけて武州多摩郡野川村から水路を掘って仙川用水を分水し、庭内に引き入れたとしている。仙川用水は武州多摩郡境新田で玉川上水を取入れていた(のちに品川用水の本流となった境の取入口より、野川分水口までの水路はもとは仙川用水に属していたのである。)その後寛文六年(一六六六)に至り、細川家で水が不用となったので、この水路を灌漑用水に使用したいと願い出て、翌七年(一六六七)品川御伝馬宿および定助郷の村々の救済として許可されたが従来の泉水用の水路ではいかにも細く、水の流れも悪かったので、九年(一六六九)六月、堀浚いと拡張工事をおこなったといわれている。しかしながら、細川家が抱屋敷の庭内の泉池用のためだけにわざわざ仙川上水を引いてくることは考えられないし、またそのような工事を幕府が許可するとも思えない。幕末期の品川用水の分水脈をたどってみると、石見浜田松平家の抱屋敷の外郭を流れて南品川宿に及んでいる(第一九五図)が、用水が開かれたのちにその水を屋敷内に引き込んだと考える方が自然ではなかろうか。ただ品川用水のもとになる水脈はあったのかもしれない。


第192図 仙川用水と品川用水との分水口

 さて寛文九年の開鑿の費用は幕府が出し、工事は江戸京橋西紺屋町の尾張屋金兵衛・神田大工町増田屋平右衛門・本所材木町六丁目中村屋長右衛門・荏原郡上目黒村重左衛門・神田須田町次郎兵衛・三拾間堀八丁目川島屋又右衛門らが請負っている。

 水路は伊奈半左衛門支配の幕領のほか、増上寺の寺領や、井伊掃部頭(いいかもんのかみ)・飯高弥兵衛・大久保勘之丞・大久保下野守・神谷安之丞ら大名・旗本領を通過するので、これらの領地に潰地(つぶれち)が出ることはいうまでもない。そこで工事の請負人たちは潰地の年貢の扱い方などを各土地の管理者と交渉している。

 まず烏山村(幕領)は、人足を出すこと、潰地の年貢はとらないこと、烏山村は天水場で水が乏しいので烏山村への水行をさまたげないこと。往還(甲州街道)の橋一ヵ所をかけることなどを約束した。外の幕領の村々粕谷(かすや)村・廻沢(めぐりさわ)村・船橋村とも同様のとりきめをしたらしい。元禄二年(一六八九)の史料に「廿一ヵ年前の酉年(寛文九年=一六六九)烏山村より船橋村まで幅九尺・間数二七八〇間・反別一町三反九畝歩のところを、町人と相対で掘手間人足二千人を出して手伝い地代も年貢も取らなかったのは四ヵ村とも天水場で入用な分だけ水を取ってもよいと約束したからである」とある。

 井伊掃部頭の領分世田ケ谷村・横根村・用賀(ようが)村・新町村の四ヵ村は、年貢のかわりに用水を分けることを契約している。四ヵ村の潰れた畑は一町九反一畝八歩に及んでおり、請負人たちは、潰地の年貢を納めるかわりに、堀を通してほしいと願い出たのである。ところが、彦根藩では、世田ケ谷・横根・用賀・野良田・新田の五ヵ村に旱損田があり、水に困っていたところなので、用水を分けてくれたら堀筋を通してもよい、年貢はいらないと解答した。彦根藩代官大場市之丞とかわした証文に、用水は何ヵ所でも望み次第永久に差し上げると明記されている。

 他の私領に対しては、潰地の年貢を支払ったらしい。後年の宝暦七年(一七五七)十二月の文書に

 用水路堀敷潰地物成米場所

一、米一斗一合                    増上寺池徳院

一、永二百八十六文

一、永一貫二百七十文           井伊掃部頭内  大場久太郎

一、永三十三文              飯高弥兵衛内  宇田川文治

一、永百六十文              大久保勘之丞内 伊藤守衛

一、永四十五文              大久保下野守内 蓬田段七

一、米八升八合              神谷安之丞内  〔欠〕

とある。年貢はとらない約束の井伊領へ、年貢を支払うことになった理由はあとで述べる。なお、この潰地物成は幕府(代官所)が毎年私領・寺領へ納めたのである。

 こうして品川領宿村待望の灌漑用水は完成した。その流水をたどってみると、武州多摩郡境村(現在武蔵野市)で玉川上水を分水し、連雀新田・野川村(現在三鷹市)を過ぎ、下仙川村(現在調布市)・烏山村・粕谷村・廻沢村・船橋村を経て荏原郡世田谷村に入り、弦巻(つるまき)・世田谷新町(以上世田谷区)・上下馬引沢・碑文谷(ひもんや)村(以上目黒区)を通って戸越村地蔵の辻で二筋に分かれ、一筋は桐ケ谷村・居木(いるき)橋村・北品川宿より目黒川に落ちる。もう一筋は、下蛇窪村地内で南品川宿用水を分かち、上蛇窪村を経て立会川を渡り大井村に入る。全長八里余り、品川領大井村・上下蛇窪村・戸越村・北品川宿・居木橋村・二日五日市村・南品川宿・桐ケ谷村九ヵ村の用水である。この用水を利用した九ヵ村の田地は、一三九町九反六畝一九歩(安永八年=一七七九の調べ)に及んだ。田地全体の反別を示す史料がないので、用水依存の田地の割合を計算することはできないが、恐らく相当の割合を占めていたことと考えられる。村別にみると、南品川宿の田地一九町九反二畝一三歩は、すべて品川用水によってうるおい、二日五日市村の田地四町七反八畝二四歩も、すべて品川用水に頼っていたらしい。

北品川宿は天保十四年(一八四三)の「宿方明細書上帳」によると田地一六町三反八畝五歩のうち八町七反五畝二七歩は品川用水、四町九反一畝は三田用水を利用し、残り二町七反一畝は天水場で村内の湧水で仕付けたと述べられており、品川用水の依存度の高いことがわかる。

 用水普請のさい、農民の負担(資材・人足の提供等)は灌漑の反別割にされることが多く、各村とも用水の灌漑反別を明確にしておく必要があった。安永八年(一七七九)と寛政四年(一七九二)の村別の灌漑反別は第41表の通りである。新田開発や畑地への転換等の理由で多少の変動があるが、安永八年と寛政四年を比べると、南品川宿を除いていずれも減少している。いまその理由を明らかにすることはできないが、二日五日市村では宝暦十一年(一七六一)に新田を検地して三反四畝一二歩を打ち出しており(資一一七号)同村の安永八年と寛政四年の灌漑反別の差はちょうどこの新田検地分と等しいのである。このことから安永八年の方には新田分が含まれているが、寛政四年の方はなんらかの理由で新田分が計上されなかったと考えられる。

第41表 品川用水灌漑反別と石高 (安永8年・寛政4年)
村名 安永8年 寛政4年
石高 田反別 取米 田反別
石戸升合勺 町反畝歩 石戸升合勺 町反畝歩
大井村 573.2 5 3 60.8 0 16 95.2 0 1 51.8 2 28
下蛇窪村 54.1 7 6.5 1 01 34.9 1 2 6.4 8 05
上蛇窪村 51.7 1 6 6.1 0 05 23.7 9 3 5.8 9 07
戸越村 85.2 9 5 8.8 4 12 34.1 5 2 8.3 6 25
北品川宿 86.0 8 8 6 9.4 2 12 35.5 8 7 7 8.3 5 13
居木橋村 109.9 2 8 11.7 6 10 49.7 7 5 11.0 6 12
二日五日市村 50.6 2 5 5.1 3 06 19.0 2 5 4.7 8 24
南品川宿 202.6 9 9 19.9 2 13 78.2 0 7 19.9 2 13
桐ケ谷村 135.8 3 8 3 14.4 6 04 53.9 5 2 12.5 2 09
合計 1349.6 1 2 9 129.2 2 16

「品川用水沿革史」27頁より作成