寛文九年(一六六九)に開設された品川用水は二〇年後の元禄二年(一六八九)に至り、かんじんの品川領の村々まで水が届かなくなってしまった。そこで品川領九ヵ村は水が不足するのは、上流の村々へ分水しているからであると勘定奉行所へ訴え出た。奉行所が見分の役人を派遣し用水堀を検査した結果、大規模な改修工事が必要なことがわかった。上流の村々は見分の役人へ、寛文の開設時に工事の請負人ととりかわした証文を示し、分水の正当なことを述べ、改修工事をして、品川領九ヵ村の水不足が解消したら相対で用水をとりたいと願っている。ところが上流の村々の分水口は閉鎖されることになった。用水を分けてくれたら潰地の年貢はいらないといった彦根藩領の村々も、やむなく分水口を閉鎖し、潰地代をとることになった。ただ上仙川村だけは、品川用水開設以前から引水していたので、上仙川村用水に不足のないようにしてほしいと主張したため、元禄三年(一六九〇)五月品川領九ヵ村と出入に及んだ。十一月に示談が成立したが、双方がとりかわした済口証文によると、仙川取入口の圦樋(いりひ)の寸法を定め、境の取入口から仙川取入口までの普請にはかならず双方が立会い、相談してきめることを約束している。
しかしながら、上流各村の分水口をふさいだだけでは品川領の水不足は解消しなかった。そこで翌元禄四年(一六九一)、勘定所普請方立会いのもとに大規模な改修工事がはじめられた。境の取入口より大井村用水掛渡井まで六里一五町三二間の水路を、川幅を広げ、浚い、土手を築いて水行をよくした。戸越村から、下蛇窪村・上蛇窪村を経て、大井村用水掛渡井までの水路はまったく新規の開鑿であった。工事の請負人は入札で決定され、工事は三ヵ所より始めて、一日あたりの人足の人数は、普請奉行の指図をあおぎ、着手してから四〇日間で仕上げることとされた。
「御普請」であるから、幕府が費用を出したのであるが、農民側の負担も軽くはなかった。いま両者の割合を明らかにすることはできないが、品川領の村々は数年来の旱損で疲弊しており、普請の費用を負担する余裕はまったくなかったのである。ことに困窮していたのは大井村で、名主の屋敷を質に入れたりして費用を捻出したが、今度はその利子を支払うことができず、未進年貢も積もり積もって、入牢者がでる有様であった。しかしこのような犠牲を払いながらも工事は進行し、年内には完成をみた。
この元禄四年の改修工事によって、品川用水はまったく整備されたといえよう。境村の取入口は長さ五間、内法(うちのり)二尺五寸四方と定められ、当時は「皆明(みなあけ)」すなわち全開を許された。また下仙川村・粕谷村・船橋村の三ヵ所に悪水吐伏樋(あくすいはきふせひ)が設けられた。元禄五年(一六九二)二月には、各村の分水口の大きさについても協定が結ばれている。品川領九ヵ村が用水組合を作って、共同で用水の管理にあたるようになったのはこのころからであろう。幕府へ対しては
一、戸越村・上・下蛇窪村への分水口が破損したとき、九ヵ村の名主・百姓が立ち会い、定めの通り寸尺・地形を吟味して修理すること。満水したときに村々によって過不足があれば、御支配方まで申し上げ御差図を受ける。御定めの圦以外、自分勝手に水口を明けてはならない。
一、用水以外の目的のために水を取ってはならない。もちろん九ヵ村以外に引かせてはならない。
一、このたび用水の上にかけた橋は、御料・私領とも村々の負担とする。大きな道はいうまでもなく村々の道にも橋をかけ、破損したときは、往還の滞りがないようにかならず修理すること。
一、武蔵野より下蛇窪村までのうちで用水堀が破損し、修復の御普請を願う場合は、前年の八月中に名主・百姓が埋まった箇所・破損した箇所を調べ、間尺を改めて代官所へ「書上」を提出し、翌年春の御普請を願うこと、人足諸入用は用水利用の村々が甲乙なく勤めること。
一、各村への分水路は堀浚い・修復とも、その村の自普請とすること、一村の力で修復できない破損は訴え出ること。圦樋そのほか公儀の入用で御普請がおこなわれるが、その節は人足を差し出すこと。
一、御普請中などに、品川領の名主・百姓が用水筋の所々へ出かけたとき、他領の者へ不作法な振舞いがあってはならない。もし用水筋の村々の者に理不尽な振舞いがあり、御普請御用に差し支えたり、用水に支障をきたすことがあれば、村々が立ち会い相談の上、やめてくれるようにいい、さらにすててもおけないようなときは、代官所まで訴えて差図を受けること。
等々の条項を約している。
上流の村々の分水口の閉鎖と、それに続く改修工事によって、品川領の村々はようやくうるおい、天水場の田地は用水場になり、少しずつ新田も開発されるようになった。反対に分水口を閉鎖され、品川用水からの引水を禁じられた上流の村々は、ふたたび天水場に甘んじなければならず、畑地に転換するところも少なくなかった。
このときの改修工事によって、また上流の村々に潰地が出ている。幕府は私領の領主に対しては替地を与えることにしたが、農民に対しては何の補償もしなかった。そこで、農民側は堀敷・土手敷は潰地としてもよいが、土取場は地主に返還してほしいと要求して認められている。