御普請と自普請

818 ~ 822

品川用水は幕府の費用で開鑿(かいさく)された用水であり、元禄四年の改修工事のほか、重要な箇所の修復はすべて幕府の手でおこなわれた。玉川上水からの取入口、境の元圦樋をはじめ、下仙川・粕谷・船橋の三ヵ村にある悪水吐伏樋や、大井村懸渡樋等の修理・伏替の費用は幕府が出した。しかし現実は用水組合村にかなりの負担がかかっている。ここでは「御普請」の実例をあげながら、農民の負担について見ていくことにする。

 はじめに、幕府が費用を出した四カ所の伏樋の普請年次を表示しておこう。

第42表 御普請場四ヵ所の伏替・修復年次
年次 下仙川 粕谷 船橋
元禄4 伏入 伏入 伏入 伏入
宝永元 修繕
7 伏替
享保元 伏替
10 伏替 伏替 伏替
14 修繕
16 修繕
21 修繕
延享4 伏替
寛延元 伏替
3 修繕
宝暦元 伏替
4 修繕
11 修繕
13 伏替 伏替
明和4 伏替 伏替
安永2 修繕 伏替
9 伏替 伏替
天明3 伏替
4 修繕
寛政4 伏替
8 修繕
文化年中 伏替
文政3 伏替
8 修繕 伏替
9 伏替
10 伏替
天保4 伏替
7 伏替
天保11 伏替
13 伏替
嘉永2 伏替
4 伏替
安政2 修繕
5 伏替
文久2 修繕 伏替
元治元 伏替

『品川用水沿革史』p.42~44の表に若干の修正を加えた

 まず境の元樋であるが、元禄四年(一六九一)の伏入から一四年目の宝永元年(一七〇四)に伏替を願ったが、このときは修繕だけに終わっている。宝永七年(一七一〇)に至って、「水行が不足し、大分の場所が無田になり、御伝馬宿・定助郷とも退転してしまった」と訴え出て、伏替の「御普請」が実施されている。その後宝暦十一年(一七六一)二月の修復願いの文面に、「前々より材木類・鉄物類・大工の賃金等は公儀御入用をもって仰せ付けられ、人足・諸色は品川領九ヵ村組合の百姓役で差し出している」とあり、「御普請」といえども百姓役が賦課されていたことがわかる。

 その後もたびたび伏替・修繕がおこなわれたのであるが、天保四年(一八三三)に至り、土抱石垣がくずれてきて、水洩れがひどくなり、上水表圦樋際の男柱・笠木・土抱板も破損して、そこからも洩水しているので、永久保存のため、石で模様替えをしたいと願い出ている。また経費は幕府の出金で足りない分は村方より足し金をすると申し出て許可された。その内わけは左の通りである。なお永一貫文は金一両に相当する。

永三三貫三二六文五分

 内

金一〇両永八九文一分            御入用

同二三両永二三七文四分           村方出金

村方からの出金が幕府の出金の倍以上になっている。ほかに村役として杉丸太三〇本・縄八〇房・人足四六五人三分を出している。これを組合九ヵ村で分担するのであるが、村役諸色(杉丸太・縄)と模様替え足し金は田反別で割り合い、人足は高割をもって差し出している。この田反別は前に述べたように、用水がかりの田反別である。高の方は水かかり高か村高かはっきりしないが、他の例でみると人足は村高にかけられている。

 境の取入口の伏替・修復に際しては、品川用水より分水している仙川用水組合からも、若干の助け合い金を出すしきたりであった。宝暦四年(一七五四)の修繕のさいは一両、嘉永二年(一八四九)の伏替御普請には二両を出し、ほかに土砂を差し出している。

 つぎに安永九年(一七八〇)におこなわれた下仙川村地内の悪水吐伏樋の伏替普請の「出来形帳」によると、材木・釘代・槇皮(まきかわ)代や大工・木挽(こびき)・鳶(とび)人足の賃金は幕府が支払い、農民側は人足二二五人と明俵一五二個、それに江戸より御普請場までの材木・鉄物の運賃が課せられている。

 文化十四年(一八一七)の粕谷村地内悪水吐御普請一件史料によると、御普請諸入用として支出されているものに、蝋燭・醤酒・鰹節・炭・茶・米・味噌等の日常品のほか、明俵代および明俵を運ぶ馬の駄賃や、人足にのませる酒代金・止宿中の宿への謝礼・粕谷村名主方へ贈った酒代金などが含まれている。第43表に示したのは同普請の場所働人足賃銭の村別負担額である。史料には高四、六六〇石で割るとあり、人足賃銭は水かかり高ではなく、総村高にかけられたことが知られる(「伊藤家文書」)。

第43表 文化14年粕谷村地内悪水吐渡井御普請の場所働人足の村別負担額
村名 人足員数 此銭 此金
貫 文 両分朱 銭 文
大井村 424 42.400 金6. 400
下蛇窪村 72 7.200 1. 200
上蛇窪村 48 4.800 22 424
戸越村 239 23.900 3.12 272
桐ケ谷村 94 9.400 1.1 648
居木橋村 60 6. 3 748
二日五日市村 25 2.500 1 748
南品川宿 141 14.100 2 100
北品川宿 112 11.200 1.2 700
貫 文 両分 貫 文
1215 121.500 金16.3 銭4 248

高4660石で割る,ただし高100石につき人足26人7厘1人につき100文
「伊藤家文書」より作成

 船橋村の悪水吐伏樋の普請も天保十三年(一八四二)の例をみると、御材木代永を受け取り、不足分は組合村々で多分の足し金をして石樋に模様替えしている。

このように、幕府から費用が出る「御普請」においてさえも農民側の負担が大きかったことがわかるのであるが、指定箇所以外は自普請であったから、全面的に組合村々の負担となった。戸越村地蔵の辻分水口をはじめ各村の分水口は、田に水を引き入れる上で重要であったが、すべて自普請であった。安永六年(一七七七)におこなわれた居木橋村・桐ケ谷村・北品川宿・戸越村に通ずる地蔵の辻分水口の伏替普請の記録を見ると、分水樋は左右二間ずつ柵を仕立て、分水樋の伏替入用代、人足賃銭は四ヵ村で割り合い、他の五カ村は割付されていない。村々へ直接引水する分水口や水路の修復は、利用している村で経費を負担し、そのほかの組合村々は立会監査に当たるだけであった。いずれにしても、用水関係の出費は組合村々の村入用費のなかでかなりの割合を占めていたものと推定されるが、詳細なことはわからない。