用水量の制限

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江戸市民の飲料水である玉川上水を水源としていた品川用水は、江戸の発展にともなう飲料水の需要の増加によって、しだいに用水量の制限を受けるようになった。すなわち長さ五間、内法(うちのり)二尺五寸四方の境の取入口は、はじめは「皆明け」を許されていたが、やがて半開、あるいは三分の一明けに調節されるようになったのである。それがいつごろからはじまったのか、はっきりしたことはわからないが、宝暦四年(一七五四)には品川用水組合の村々から代官所へ、「当用水は九里あまりの遠路を引いてきているので、分水口をすべて明けてあっても水が届かないで困っている。もし三分一明けにされてしまったら、田地はまったく荒廃するに違いない。どうか全開のままにしておいて頂きたい」という訴えが出ている。

 天明八年(一七八八)の代官への答申書には「当組合の用水取入口圦樋は、長さ五間、内法(うちのり)二尺五寸で、以前は全開あるいは半開を許されていたが、近年は上水不足ということで、三分の一明きにして八寸三分、三分明きにして七寸五分、二分明きにして五寸、四分の一明きにして六寸と、御指示に従っている。当春は三分一明きを命ぜられて引水している」とある。

 享和二年(一八〇二)より定式三分明きと定められたが、上水不足の折には二分明きを命ぜられることも多く、しばしば増明願が出されている。文化三年(一八〇六)の増明願によると、「玉川上水から引水している外の用水は堀筋が短いので、場所によっては一時間から二時間で田へ用水が行き届くが、品川用水は遠路のことゆえ、日照り続きの節は昼夜二日がかりでようやく到達する。しかし元水の入れ方が少ないと、いたって水の流れが悪く、堀筋へしみこんでしまう。このようなときは種々手配して、昼夜を分かたず村役人がつきそい、すこしでも水が行き過ぎた場所は差しとめて、不足の方へ引き、百姓たちは順番に用水を引き取り、用水不足に対処している」と窮状を訴えている。順番をきめて用水を引きとることを番水というが、この方法は上流の田地と下流の田地の用水量の不均衡をなくすためにとられた措置で、水不足を根本的に解決することは不可能であった。

 「用水元樋明け分量覚」によると、寛政十一年(一七九九)三月までは五分明き、また三分・二分・一分五厘・一分明きなどもおこなわれ、ときどきは「皆留」すなわち全面閉鎖されることもあった。寛政十二年四月六日より三分明きを命ぜられ、上水不足のとき二分明きとされた。文化七年(一八一〇)三月廿七日より、「例年の通り三分明きにして頂きたい」と「樋口明願書」にしたためるようになった。また例年三月、御普請方役所へ戸口開け(用水の水門を開くこと)を願い、八月晦日ころになると、用水は不用となるので、九月上旬に樋口を塞いだことを御役所へ届けるならわしであったが、近年は届け出なくても済むようになった。しかしながらこれは不本意なことであると記している。旱ばつで水量が少なく、わざわざ届け出る必要がなくなったことをなげいているのである。