境の取入口から組合村々までえんえん七里あまりの水路は、途中破壊されたり盗水される恐れがあった。これらを防止するため、元禄四年(一六九一)の大改修後、幕府の手で五箇所に高札が建てられた。上流の方から、境村地内・野川村地内・烏山村地内・船橋村地内・世田谷新町地内である。高札には
定
品川用水堀通土手損きし又ハ切落盗取候もの於レ有レ之者可レ為二曲事一もの也
月 日 奉行
と書かれてあり、年数を経て文字がわからなくなると、代官所へ願い出て、墨入れ(書き替え)をしてもらうことになっていた。墨入れの年次は左の通りであった。
宝永六年 一八年後
宝暦二年六月 四三年後
天明元年閏五月 二九年後
寛政八年九月 一五年後
文化四年 一一年後
文政六年 一六年後
天保十年 一六年後
嘉永五年 一三年後
文久二年三月 一〇年後
板面の中央部は高さ九寸六分、支柱の長さは五尺で、全長は大人の背丈よりやや高かった。
当時、高札の権威は相当なものであったから、用水の保護に充分な効用があったことと思われるが、慶応三年(一八六七)十一月に烏山村地内の高札が紛失したことがあった。当時の記録によると「祖師ケ谷村水番人がそのことを発見して烏山村名主に連絡し、みなで付近を探したが見当たらない。粕谷村の御普請御用宿松五郎宅へ立寄ってみると、そこにひろわれていた。以前にも紛失したことがあったが、そのときも松五郎が拾っている。これを受けとり、名主宅に赴き、元通りに建てて取締方を依頼し、安心の上帰村した」と記されている。組合村にとって高札はもっとも大切なものとされていたのである。
組合はまた水路の保全と用水の保護のため境の取入口その他に水番人を置いた。
境の水番人は享和二年(一八〇二)六月、分水口が規定の三分明き以上に開いているのを、上水見廻りの役人に発見され、取り調べを受けた。そのときに「わたくしは高二石六斗を所持する百姓で五人家族である。代々品川用水の分水口の近くに住んでおり、曽祖父の代より用水組合の村々の頼みによって、樋口の見廻りや塵芥の取除き、そのほか諸事心を配り、世話料として金一分二朱ずつを用水組合より受け取っている」と述べている。そして樋口が余計に開いていたことについて、「用水不足の折柄、用水組合村々から頼まれて不埓な取りはからいをしたのではないかとの嫌疑がかけられたが、決してそのようなことはない、往来の者の仕業と思う」と答えている。
水番人の給金は組合村々で割り合って負担した。表に示したのは給金ではなく、文化五年(一八〇八)四月に下祖師ケ谷村の半兵衛という水番人の家の屋根の修復費を分担したときのものである(「伊藤家文書」)。金三両二歩=永三貫五〇〇文を田一二九町二反歩で割り合い、一反につき永二文七分一厘として計算している(従ってすこし余分に取っている)、水番人に対して給金ばかりか住居の面倒まで見ていたことがわかる。組合村々は「御普請」の村役や自普請の経費を分担した上、さらに用水管理面でも少なからぬ出費を余儀なくされたのである。
村名 | 分担額 |
---|---|
貫 文分 | |
大井村 | 永1.404 3 |
下蛇窪村 | 175 6 |
上蛇窪村 | 159 6 |
戸越村 | 226 6 |
桐ケ谷村 | 339 3 |
居木橋村 | 299 7 |
二日市村 | 129 5 |
南品川宿 | 539 8 |
北品川宿 | 226 3 |
計 | 貫 文分 |
永3.500 6 |