三田用水も品川用水と同様玉川上水を水源とする灌漑用水である。世田谷領下北沢村地内で、三尺四方の樋口をもって分水し、二里余りを経て目黒川に注いだ。三田用水に依存した村は北品川宿・上・下大崎村・谷山村・目黒村・同村上知組・中目黒村・下目黒村・中渋谷村・下渋谷村・白金村・三田村・今里村・代田村の一四ヵ村で、品川領・麻布領・世田谷領・馬込領にまたがっていた。
三田用水の前身は、寛文四年(一六六四)十一月に幕府評定所が中村八郎右衛門・磯野助六の両人に命じて開かせた三田上水で、芝・金杉辺の水道(飲料水)であった。元禄十一年(一六九八)には麻布御殿(白金御殿)にも引水されたので白金上水ともいわれた。この御殿が焼失し、享保七年(一七二二)十月、上水は廃止されることになった。これまで上水の残り水で田方を仕付けてきた一四ヵ村は、たちまち用水にこまり、旧上水を灌漑用水に利用させてほしいと願い出て許可され、三田用水と称するようになった。一四ヵ村の支配関係は錯綜しており、幕領のほか二寺領(増上寺・湯島根生院)、五旗本領(森川玄蕃・三浦久五郎・三浦五郎三郎・吉田清左衛門・野間藤右衛門)に分かれていたが、三田用水の利用関係を通じて三田用水組合がつくられた。
下北沢の取入口は「御普請場」で、材木代は代官所から渡され、人足・明俵・縄等は村役であった。村々への分水口も白樋・埋樋・枡形とも御手当金が与えられ、不足分は村々より補って普請をおこなった。
嘉永二年(一八四九)の元圦樋伏替のときに、内法・縦二尺九寸、横三尺の石造圦樋にかえられた。寛政九年(一七九七)の普請の例をみると、総工費一七四両永一一〇文六分のうち御手当金は七三両二分で、材木代九四両三分永二八文二分にも及ばなかった。
また品川用水と同様、玉川上水の規制を受けて、下北沢の分水口は、二分明・三分明・あるいは全面閉鎖に及ぶこともあった。
各村への分水口は一七ヵ所を数えたが、上・下大崎村・北品川宿への分水口は白金村字久留島上にあった。長さ一間、内法九寸二分五厘四方の箱樋で分水していた。