品川の地は中世、品川湊として栄え、神奈川とともに海上交通の要地であった。永和四年(一三七八)八月三日、武蔵守護上形憲春が守護代長尾景守に、神奈川・品川湊等に出入する船に対して帆別銭を賦課し、寺の造営費にあてるよう命じた史料(資二九号)や湊船帳・帆別銭納帳(資三七・三八・四〇・四一号)等の史料から品川湊の船の保有量は相当なものであったことがわかる。しかし、これらの船は輸送機関であって、漁船として使用された形跡はなく、中世における品川の漁業の様子を伝える史料はなにも残っていない。
近世になり、品川が宿場町としてにぎわうようになると、魚の需要が急増し、他浦と同様、関西の漁民が移住して漁業の発達を促したものと思われる。現在、寄木神社の境内の一隅に「江戸漁業根元之碑」が立っているが、この碑文に、もと品川猟師町の漁民の間にいい伝えられた話が記されている。それは、大坂の陣後、豊臣の遺臣で本田九八郎というものが、家康をねらって、一族郎党三十余名を伴なって江戸に下ったが、とうてい、その志を遂げられないのをさとって、一族で品川に定住して猟師に転向し、故郷の瀬戸内海の発達した漁法を伝えて、品川の漁業の振興に貢献したというのである。漁業に転向した者の子孫は屋号を泉屋といい、それは本田が、大坂城の泉口の守将であった縁によるものという。のちに本田は心海寺を開いて住職となった。心海寺の開祖が本田であることは記録にあるが、本田が豊臣の遺臣であることや、漁業に貢献したなどの点は定かではない。ことの真偽はさておいて、品川の漁業が多かれ少なかれ、上方漁業の影響をうけて発達したことを暗示する話ではあろう。
『新編武蔵風土記稿』によれば、近世初頭における品川浦の漁民集落は、南品川宿三丁目にあり、明暦元年(一六五五)朝鮮使節の参府の際、宿並に伝馬役が漁民に課せられたとき、浦役の上に伝馬役を課せられては過重負担であるといって、課税免除を願ったため、宿内の居住を許されず、目黒川河口の砂洲に移された。そこは当時兜島(かぶとしま)とよばれて、人家は皆無であったという。しかし、それから約五〇年を経た元禄期には、戸数にして四〇戸前後、猟師抱の網干場を持つ、純漁村=猟師町が形成されていた(資一一五号)。そしてのちに述べるように、御菜肴八ヵ浦のひとつとして、いちじるしい発展をみるのである。