(3) 猟師町の構造

833 ~ 836

南品川猟師町は、南品川宿一丁目から目黒川に沿って突き出た南北三町二〇間余り、東西二〇間の帯状の地であった。

 石高九石三斗六升六合七夕(弘化二年(一八四五)新田検地により四斗八升ふえて九石八斗四升六合七勺)、反別九反三畝二〇歩(検地により四畝二四歩ふえて九反八畝一四歩)すべて屋敷地であって、前述のとおりの成立期の事情から南品川宿に属していた。すなわち、南品川宿の高内に高受けされて、年貢の割付その他は南品川宿の行政のうちで処理されていた。新田検地以後の嘉永六年(一八五三)当時の屋敷地の年貢は、一反につき永一六〇文、反別九反八畝一四歩の取永は、一貫五七五文五分であった(資一二五号)。

 屋敷地以外に猟師の共有の網干場(長さ百八〇間、幅一三間)が五反六畝一〇歩あり、これに対して永二八文(毎年一反につき五文)の浜銭がかけられていた。

 屋敷地の年貢や網干場銭のほかに御菜肴献上の義務があり、各種の浦役を勤めなければならず、そのかわりに地子・宿役が免除されていた。


第199図 元禄八年の品川猟師町の検地帳(大島家文書)

 また南品川宿に属しながら、単独の名主がおり、村としての行政上の機能を備えていた。いま諸文書から判明する村役人の名を表記すると上表のごとくになる。

第45表 南品川猟師町役人一覧
年代 名主 年寄 組頭 猟師頭
元禄十・十二 次郎右衛門 市左衛門
享保五・五 次郎右衛門
享保七・四 次郎右衛門 市左衛門
享保十九・十一 次郎右衛門 庄左衛門
利兵衛
享保二十・閏三 次郎右衛門 源右衛門
市郎左衛門
宝暦七・十二 次郎右衛門 惣左衛門 佐五兵衛 利兵衛
天明二・正 治左衛門
文化六・十一 長蔵 猟師惣代藤四郎
文化八・十一 長蔵 作兵衛 百姓代善助
文化十・十 伝左衛門 百姓代市郎兵衛
天保五・三 忠右衛門 三十郎
天保八・六 三十郎
天保九・十一 忠右衛門 三十郎
天保十三・十一 久五郎
天保十四・三 忠右衛門 長左衛門
弘化二・五 忠右衛門 長左衛門 猟師惣代久五郎
文久元・七 忠右衛門
慶応四・閏四 長左衛門 熊次郎
明治元・十一 忠右衛門 八五郎 猟師惣代庄右衛門

 

 名主は大島氏が世襲し、年寄・組頭等の村役人のほかに猟師頭が、小前猟師を代表していた。猟師惣代ともいい、村方の百姓代にあたるものである。

 次に元禄八年(一六九五)十二月の品川猟師町検地帳(大島家文書)にもとづいて、猟師町の土地保有状況を調べてみよう。九反三畝二〇歩の屋敷地が七六筆に分かれており、これを整理すると、二筆請けが三五戸、一筆請けが六戸で、戸数は四一戸となる。戸主の名と屋敷保有面積は第46表の通りである。

第46表 南品川猟師町の土地保有状況
名前 屋敷保有面積 名前 屋敷保有面積
畝歩 畝歩
甚左衛門 1.25 八右衛門 2.03
次郎右衛門(名主) 2.19 源左衛門 1.15
弥五兵衛 1.12 太兵衛 1.17
長兵衛 1.20 五郎兵衛 0.15
勘兵衛 1.27 長右衛門 2.10
与兵衛 1.29 長三郎 2.10
庄右衛門 2.12 庄五郎 2.09
五兵衛 2.19 八郎兵衛 2.05
孫兵衛 5.25 平兵衛 2.05
宇右衛門 2.19 惣右衛門 2.07
清兵衛 2.17 八郎左衛門 2.05
市郎兵衛 1.25 惣兵衛 2.25
与惣兵衛 3.26 長太郎 2.06
金左衛門 2.22 佐次兵衛 2.02
三左衛門 3.13 善九郎 1.29
長左衛門 2.12 利平次 1.20
市左衛門 2.27 作兵衛 1.27
久右衛門 2.07 五平次 2.17
平右衛門 2.01 市右衛門 1.28
新之丞 2.02 甚兵衛 2.05
六郎兵衛 2.01

 

持高 戸数
5畝以上 1
3畝以上5畝未満 2
2畝以上3畝未満 25
1畝以上2畝未満 12
1畝未満 1
41

 

 最高は五畝二五歩の孫兵衛で、名主の次郎右衛門は二畝一九歩を保有している。平均は二畝八歩あまりで、二畝以上三畝未満のものが二五戸と、全体の六一%を占めている。これは南品川猟師町が小漁民によって構成されていたことを示すものである。いわゆる網元・網子等の身分階層の分化はおこなわれず、自家労働力に頼った小規模な漁業が営まれていたのである。

 つぎに戸数・人口の変遷を表記すれば第47表のごとくである。

第47表 南品川猟師町の戸数と人口
年代 戸数 人口
元禄10 41
天明3 92 218 151 369
文政11 135
天保9 107 447
慶応2 148 318 337 655
明治7 148 387 392 779

 

戸数において天明三年(一七八三)には元禄期の二倍強の九二戸、文政十一年(一八二八)には三倍強の一三五戸となり、天保九年(一八三八)には一〇七戸と一時的に減少しているが、明治維新当時は一四八戸と再び増加していることがわかる。天保期の減少は、大飢饉の影響とも考えられるが確証はない。

 大井村御林猟師町は大井村に属し、大井村の名主の管轄下にあった。南品川宿猟師町のような単独の村役人はいなかったようである。ただし、品川浦と同様、猟師頭がいて、猟師たちを統轄していた。文書にあらわれるかれらの名前を上に挙げておこう(第48表)。

第48表 大井御林猟師町猟師頭一覧
年代 名前
享保17・5 庄左衛門・権四郎・市兵衛
享保20・閏3 権右衛門
天明2・正 権右衛門
天保元・12 忠兵衛・伊之助
天保13・11 忠兵衛
弘化4・6 忠兵衛
万延元 八十八・市十郎・勘次郎
慶応4・閏4 佐五右衛門(猟師惣代)
明治元・閏11 八十八(代兼佐五右衛門)

 

 このほか、大井御林猟師町について、村落の構造を知ることができるような史料がなく、家数人口等も判然としないが、恐らくは品川猟師町と同様に、小漁民による漁業が営まれていたものと考えられる。