御菜肴献上

836 ~ 840

品川浦・御林浦は、御菜肴八ヵ浦のひとつとして、収獲した鮮魚を幕府に献上する義務を負っていた。品川浦で御菜肴を献上するようになったのは、かなり古くからのことであって、年月は定かではないが、恐らく、明暦元年(一六五五)の猟師町の移転以前からのことであったと思われる。後年の記録は、みな家康の関東入国以来と述べているが、入国以来の献上は、元浦の本芝・金杉両浦で、やがてこれらの浦と浦続きであった品川浦も、両浦にみならってとれた魚を献上するようになったのであろう。

 本芝・金杉浦が御菜肴を献上するようになった次第は、元治元年(一八六四)の両浦の書上によると、天正十八年(一五九〇)の関東打入りの際、家康が芝浦を通ったとき、潮のぐあいが悪くて、船が洲にかかって動けなくなってしまった。そのとき、本芝浦と金杉浦の郷士たちが猟師を集め、数十艘の漁船が出て、御座船を動かし、戸田というところまで送った。そこでお褒めの言葉を賜わり、望みをきかれて、御入国後もこれまで通り猟を続けたいから、何国何方の浦へいっても差し支えないようにしてほしいと願ったところ、両浦の者に対して、水三合ある場所ならばどこへいって猟をしてもよいという黒印状を賜わった。このようなわけで、御入国後は上品の魚がとれると、初穂として江戸城へ持参し、伊奈能蔵(忠次)を通じて、おりおりに献上し、時日の定めなどはなかったが、秀忠の時代に、月に四度ときめて上納することになり、また猟師たちはがさつ者が多く、直接江戸城へ持っていくことは畏れ多いというので、地方役所へ納めるようになったと述べている。またこのころから品川浦も「最寄(もより)の儀につき」納めるようになったといっている。

 本芝・金杉・品川に御林浦が加わったのは前に述べたように万治ころのことであり、その後、羽田浦・生麦浦・神奈川浦・新宿浦が組み合って、御菜肴八ヵ浦といわれるようになったのである。しかし、御菜肴を献上したのは必ずしも八ヵ浦に限ったことではなく、佃島をはじめ、葛西や深川猟師町も八ヵ浦と同様、とれた魚を幕府へ献上していた。

 佃島からは白魚、深川猟師町からはキス・フッコ・小スズキ等を献上した。葛西領のうち漁業を営んでいたのは長島・東宇喜田・西宇喜田・桑川・下今井・二ノ江・船堀の諸村であるが、このうち最も古くから漁業が開けた二ノ江、長島・下今井の三ヵ村が御菜肴を献上する義務を負っていた。二ノ江村では慶長年間から地曳網猟がおこなわれていたといわれ、カレイ・キス・サヨリ等を収獲し、三月から九月まで月三回献上し、このほか、江戸川口でとれた白魚を、十一月から三月まで数日おきに一回二~四合ずつ献上していた(『東京都内湾漁業興亡史』)。

 葛西・行徳と浦続きの船橋村からも御菜肴を献上したという記録が残っている。同村の漁業史料によると家康が東金へ赴く途中、船橋の御殿へ立ち寄った際差し上げたのがはじまりで、幕府の御台所へ御肴を一ヵ月に、猟師町より五度、海神より一度、計六度ずつ、ただし地引網のない時は一ヵ月に三度ずつ上納していたが、元禄十六年の大地震のときに舟・網・諸道具をおし流され、藻草もはえなくなって、献上魚にことかくようになり、その後は御菜肴代を上納するようになったとしている。献上魚はカレイ・コチ・キス・サヨリ等、数は三〇くらいで、朝のうちに御支配所まで持参し、吟味を受けた上で、御台所へ納めたといっている。

 享保二年(一七一七)の本芝・金杉両浦の書上によると、両浦の肴の献上日は毎月四回、六日・十三日・廿一日・廿七日で、当番の猟師が前日より猟をした分を残らず御菜小屋へ持参し、猟師頭・町内の家持・組頭・名主が立ち会ってよく吟味して、代官伊奈半左衛門方へ持参することになっていた。肴は時により違うが、石ガレイなどの類が多い。引き揚げてすぐに撰んで献上するので、種類も数も一定していないと述べている。また海上がしけたときには日延べを願い出ている。

 品川浦では天明三年(一七八三)の「村鑑」によれば、「毎月御定日三度御差上」とあり、その他の記録も月三回としている。

 享保七年(一七二二)三月、葛西領浦方・深川猟師町・八ヵ浦に対して、突然、御菜肴献上を中止する旨の命令が下った。御菜肴献上は漁村の名誉であり、猟師のはげみともなる。翌四月、浦々は団結して、いままで通り、御菜肴を献上したい旨の願書を代官所に提出し、八月、願いがいれられて、ふたたび生魚を献上することになった。

元禄十四年(一七〇一)の大地震以降、生魚のかわりに御菜肴代永を上納してきた下総国船橋村でも、寛保三年(一七四三)四月に、ふたたび生魚を献上したいと願い出ている。御菜肴を差し上げなくなってから、不景気になり、他浦の猟師どもが入りこんで、船橋浦をないがしろにするようになったので、もとどうり御菜御肴を一ヵ月に三度ずつ(地引網猟がある時は六度ずつ)差し上げたいというのである。しかしこの願いは許可されなかったとみえ、船橋村はその後もひきつづき御菜肴代永を上納している(船橋漁業史料による。)。

 しかし、定例の上納以外に、臨時の御菜肴を命ぜられると、かなりの負担となったらしく、享保十九年(一七三四)十一月には、金杉・本芝・品川三ヵ浦から、「近年江戸前海上不漁で、その日暮らしの渡世であるのに、臨時の御用を急に仰せつけられては、難義至極である」との訴えが出ている。またその翌年、享保二十年閏三月には「これまでたびたび臨時の御用を仰せつけられてきたが、大体前日九ツ時(午前零時)過ぎ、あるいは七ツ時(午前四時)前後に御触がきて翌朝の御用を命ぜられる。ところがこの触状を金杉から羽田へ廻って、神奈川浦まで送るのに、およそ八里の道のりを、ずい分急いでも夜中に廻るので、生麦・新宿・神奈川の三ヵ浦は猟にとりかかるのが遅れてしまい、翌朝の刻限に間に合わない」と述べ、「今後、臨時の御用は金杉・本芝・品川猟師町・御林町の四ヵ浦の漁船が出て漁をし、刻限に間に合うように御肴を差し上げることにしたい、このときにかかった舟賃と持送り人足等の入用金はあとで生麦・新宿・神奈川・羽田の四ヵ浦で割り合って負担することにしたい」と願っている。

 定例の上納は、寛政四年(一七九二)に現物納を中断し、代銀を納めることになった。品川ではこの年、御菜肴代として永三貫六三〇文五分を納めている(資一四四号 寛政五年正月去子年分南品川宿年貢皆済目録)。『品川町史』では「地誌御調書上」によって、毎年御菜肴代を永四貫二三七文づつ上納したと述べ、これは安永三年(一七七四)から寛政三年(一七九一)まで一八年間に上納した魚代の平均の七割であるとしているが(『品川町史』中巻二九〇ページ)、天保十四年(一八四三)の「宿方明細書上」(資一七二号)によれば、御菜肴代は永二八貫九〇〇文とあり、年により変動があったものと考えられる。

 文化七年(一八一〇)七月にいたり、御菜肴代を上納するほかに、一ヵ月に一度三品ほどずつ漁猟最初の魚(猟初穂魚)を上納したいと、八ヵ浦が願い出て、十二月に許可されている。上納日の日割の書付を渡され月番で献上することになった。朝六ツ時までに浦役人が、日本橋の馬喰町御用屋敷内にある鷹野役所へ持参し、そこで検査を受けて、江戸城へ献納したのである。弘化四年(一八四七)六月に御林浦が納めた御菜猟初穂魚は、鰈(かれい)三〇、あいなめ三〇、車海老一〇〇であった(資二八一号)。

 このように月三回の生魚献上は、寛政四年に中止され、文化七年復活したときから月一度となったのである。もっとも臨時御用は頻繁だったらしい。とくに将軍の代替わり等の慶祝事には、大量の魚が入用となる。このような場合には八ヵ浦をはじめとして、江戸内湾四十四ヵ浦が総出動させられた。天保八年(一八三七)四月家慶が十二代将軍になったときには、金杉・元芝の魚問屋が取扱う御用鯛を、四十四ヵ浦で援助し、活鯛五、〇〇〇枚を一定の値段で請負っている。とれた鯛は神奈川と羽田の活簀(いけす)へ廻し、新鮮な生鯛を差し出すことを約している。