浦役

840 ~ 842

つぎに以上述べた定例・臨時の御菜肴献上以外に、猟師町に課せられた種々の浦役について検討してみよう。幕府は諸国浦々に高札を掲げて、海沿いの村々が守らなければならない掟を示したが、その第一条に、公儀の船・諸廻船の遭難時に、救助の船を差し出すこととあり、このほか浦高札の規定通りに、浦方の義務を果たさなければならなかった。

 浦高札は南品川猟師町の入口に高く掲げられており、その建て替え・修理のさいは南品川宿・同猟師町・同長徳寺門前・北品川宿・歩行新宿・妙国寺門前・品川寺門前・海晏寺門前・大井御林町・同浜川町・不入斗村・北大森村・西大森村・東大森村・萩中村・麹谷村・羽田村・同猟師町の一八ヵ町村で費用を分担した。なお寄木神社に正徳二年の浦高札が保存されている。

 また浦高札の規定通りの一般的な浦役以外に、江戸に隣接している八ヵ浦には、特別の浦役が種々課せられた。(それらの多くは臨時の課役で、その間漁師たちは漁猟を休んで課役を遂行した。)その第一は、将軍が品川筋・浜御殿・江戸川辺に御成のときに、海上取締りのため番船を差し出すことである。ふいに魚猟の上覧御用を命ぜられることもあり、また享保十一年(一七二六)五月、将軍吉宗が小金猪狩を催したときには、金杉・本芝・品川猟師町・御林町・羽田猟師町の五ヵ浦から船と水主(かこ)を徴収している。船四般は品川猟師町から、水主は五ヵ浦で割り合って差し出している(資二七三号)。

 第二に、御城米を運送する船が風波に逢ったり、島々へ流人を送る船が出るときには、引船・番船を差し出すことである。罪人は芝浦から品川浦へ護送され、品川浦は大井村境海晏寺門前境で御林浦へ引き渡し、御林浦は大森村一の澪杭(みおぐい)で羽田浦へ引き渡し、羽田浦は生麦浦(なまむぎうら)まで護送し、順々に伊豆下田まで継送したのである。なお、このような海上の役儀を勤めるときには、舟印として白地に黒で御用船と記した幟をたてた。

 第三に、近国出水の際、救助船を出すことである。江戸およびその周辺が洪水のとき、江戸川に船を乗り入れ、馬喰町の御用屋敷のもとに詰め、郡代の指図によって、救助活動に従事することになっていた。文政七年(一八二四)「宿差出明細帳」によれば、寛政十一年(一七九九)郡代中川飛騨守忠英の勤役中、深川猟師町・金杉町・本芝町・品川猟師町・大井御林町・三大森村・羽田猟師町に対して、一〇〇般の舟を割り合って差し出すよう命ぜられたが、羽田猟師町が、当浦は六郷川口で、江戸が出水のときは同様に満水となり、救助船を出すことを免除してほしいと願って許され、不足の分は、ほかの浦々へ増舟を命ぜられた。しかし、羽田浦は大浦で、これまで一〇〇艘のうち六〇艘を差し出す割合になっており、それほど多くは他浦も引き受けられないので、これまでの船数四十艘に十二艘増舟して五二艘を差し出し、品川浦からはこれまで八艘差し出してきたところを、一〇艘差し出すようになった、と記されている。天保十四年(一八四三)の「宿方明細書上帳」では「寛政十一年(一七九九)以降、八ヶ所に而御救船五十一艘」とあって、一艘の差異があるが、品川からは一〇艘と変わりはない。この目印として、朱の二つ引違いの印がついた幟と挑灯が、船の数だけ渡されている。

 このように救助船を差し出している間、猟ができないことはいうまでもない。期間が長くなればそれだけ生活にも支障が出てくる。弘化三年(一八四六)七月、葛西筋村々の出水に際して救助船を出した品川猟師町では、救助に赴いた者が現地で詰め切りになっており、妻子の扶助にも差し支えていると役所に訴え出たところ、急場のことでもあり、さしあたり凌ぎ方を三宿に相談せよといわれた。そこで宿方に申し入れ、談判の末、一宿六両ずつ、三宿から一八両の金を受けとることができた(『品川町史』一巻一五七ページ)。