船に対してかけられる租税を船年貢・船役銭という。いっぱんに船年貢は積荷して河川を往来する船(川船)に対してかけられ、渡船や猟船は無年貢であった。川船は幕府の川船役所の支配を受け、極印(焼印)を船体にうってもらわなければ通行できなかった。幕府は猟船も江戸の河川に乗り入れる船については極印を打とうとしたが、漁民は強硬に反対して幕府の命令に服さなかった。そこで幕府は縦一尺二寸ほど、横一尺の二つ引違いの紋がついた、紺地木綿の幟を与えて川船と区別した。また元禄九年(一六九六)にいたり、極印を打っていない船の再検査のさい、代官より焼印の札を与えて、無年貢であることを証明した。宝永七年(一七一〇)の鑑札が一枚、のちまで残り、『新編武蔵風土記稿』に上のような図が載せられている。
享保元年(一七一六)幕府は川船の数を改めたが、同時に御免言字極印の猟船、代官の焼印札を渡されている無極印の猟船まで、船数の書上を命じて、(『正宝時録』第二巻一四九八)すべての船の把握をめざしており、享保八年(一七二三)には、これまで無極印の猟船も、江戸の河川に乗り入れる船は一般の川船と紛らわしいので、無年貢船を示す「言」字の極印を打つことにしている。この命令に対して金杉・芝・品川猟師町・御林町・生麦町・新宿町・神奈川猟師町の浦々は、翌九年六月、「猟船は川船とは船の作り方も違い、川船とまちがえることはないし、海上で、その日暮らしの漁猟をし、川船所有者とは違って不調法ものであるから、川船役所の支配下に属し、その極印を受けることはどうか免除してもらいたい、これまで江戸の河川を往来したこともないし、今後も入り込むことはない、猟船の稼ぎは川船の働きとは違い、一ヵ月に二〇日も猟をしなければならないので、もし極印を受けると、船がこわれたときにはそのたびに川船役所に届けなければならず、その上、毎年通り手形を書き替えるために、船主は役所へ出かけなければならず、乗合の猟師まで稼ぎがとどこおり難儀至極である。また船が古くなって、売却しようとしても、極印を切り抜くと、代金が格別安くなってしまう」と述べて、極印の免除を歎願している(資二七二号)この願いは受け入れられたと見え、『新編武蔵風土記稿』では、今も(文政十一年当時)江戸の河川に乗り入れるときは、代官の鑑札を持参すると記している。
以上の如く、船年貢は免除されたが、このほか船役銭・旅猟船運上・船焚運上・海苔運上等の雑税が課せられた。寛政四年(一七九二)分の「南品川宿年貢皆済目録」と、天保十四年(一八四三)三月の「宿方明細書上帳」によってその額を示そう。
寛政4年 | 天保14年 | |||
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船役銭 | 600文 | |||
海苔運上 | 貫 文 分 厘 毛 | 貫 文 毛 | 貫 文 分 | |
永1.268 5 7 5 | 永10.817 5 | 南品川宿 | 永6.449 | |
(子より酉まで10ケ年季) | (当卯より未まで5ケ年季) | 同猟師町 | 永4.368 5 | |
船焚運上 | 文 | 貫 | ||
永385 | 永5 | |||
(同上) | (当卯より子まで10ケ年季) | |||
旅猟船運上 | 貫 文 | 貫 | ||
永2.600 | 永2(1艘につき永100文) | |||
(年々増減) | (年々増減) | |||
猟師町裏築立地野永 | 文 | |||
20 | ||||
(亥より卯まで5ケ年季) |
海苔運上はのちに述べるように、海苔養殖業に対する税で、船焚運上は、品川浦に寄港する諸国廻船の船底を茅で焚く商売稼ぎをしているものにかかる税である。旅猟船運上とは、房総の猟師たちが毎年六月上旬から十月下旬まで、品川浦沖合で、鰆(さわら)・鰯網猟をするが、かれらから船一般につき永一〇〇文ずつ取りたてて上納するのである。従ってその額は一定せず、年々増減があった。
八ヵ浦と同様御菜浦であった下総国船橋村の浦役についてみてみると、古くは江戸城築城のさい資材の輸送用にてんとう舟二一艘を差し出すことを命ぜられているが、その後この船の船役銭として毎年永二貫百文ずつを上納している。また、下総・上総両国よりの御城米船が江戸へ廻船のさい、舟橋浦の船がかり場に停泊することになっており、難風の折は引船を差し出し、あやまちのないように守らなければならない義務があった。舟橋は佐倉街道の往還宿でもあり、不時の御用が多く御鷹御用・御野馬御用等にまでかり出されている(船橋漁業史料による)。
江戸周辺の浦方は八ヶ浦に限らず、種々の浦役が課せられていたようである。