入会漁場と専用漁場

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天保十四年(一八四三)の「宿方明細書上帳」によると、品川沖では〓(こち)・鮃(ひらめ)・芝海老・沙魚(はぜ)・白魚・あいなめ・烏賊(いか)・きす・〓(うつぼ)・石もち・小鯛・黒たい・鰡(ぼら)・さより・鰈(かれい)・ほうぼう・あかえい・鰆(さわら)などを四ッ手網・手繰(たぐり)・細縄船を使ってとりあげ、貝類は赤貝・蛤蜊(はまぐり)等を巻猟・貝桁(かいげた)などの猟具でとり上げ、鰆網の場合は本牧(ほんもく)沖から上総・下総・江戸前まで稼ぎにいくとある。

品川浦の境界は、南は大井御林浦、北は芝金杉浦二ノ棒杭、東は字大洲通りである。御林浦の境は北は南品川猟師町、南は大森村分字真崎下桁というところで、羽田浦一ノ澪杭(みおくい)におよんでいた。

 品川浦も御林浦も貝類の採集などはそれぞれの浦の範囲内でおこなっていたが、網猟の場合などは沖合に乗り出し、収獲したのである。すなわち江戸湾内は沿岸漁村の共同漁場で、品川の猟師が対岸の上総・下総まで出かけることもあれば、房総の猟師が江戸前まで稼ぎに来ることもあったのである。

 しかし、入会漁業は色々な問題を引きおこした。その第一は、各浦の地先浅海の専有権をめぐる紛争である。つまり慣習的に各浦の専用漁場となっている一定区域内へ、他浦の猟師が入り込んで猟をしたばあいに、入会か専有かをめぐって争われる。このような紛争の例を二、三あげると、

 正徳五年(一七一五)、深川猟師町と八丁堀の漁民が羽田・大森村下へ入り込み、貝類を巻猟して、両村から入会を差し留められ、出入に及んでいる。その裁許状によると、網猟は双方入会の場所について、これまで通りおこなってよいとしているが、貝猟は羽田・大森の区域内に入り込むことを禁じており、地先浅海の専有権を認めている(『品川町史』中巻二七〇~二七一ページ)。

 天明元年(一七八一)には下総国船橋村の漁場専有権をめぐる紛争が生じている。船橋村一ヵ村の磯猟場(船橋澪から貝ケ澪まで)に葛西・行徳(ぎょうとく)(東宇喜多・長島・猫実三カ村)の猟師が入り込んで貝猟をし、貝桁を取り上げられたことに端を発し、船橋村は専有権を主張し、葛西・行徳の浦方は船橋澪まで、葛西・行徳・深川・芝・品川の入会場であると主張して、たがいに譲らなかった。それぞれの申し立ては左の通りである。

○船橋村の申し立て

 船橋澪から貝ケ澪までの範囲は船橋村の磯猟場で、古くは御菜魚を献上したので御菜浦といった。磯猟場に対して沖猟場はどこの持場というとりきめはない。沖猟場と磯猟場の境目は櫂(かい)の立つところまでが磯猟場である。貝ケ澪より西南の方武州荏原郡浜川村水車橋までは葛西・行徳・深川・芝・品川の入会の磯猟場である。天明元年九月、葛西・行徳三ヵ村の猟師が、船橋澪と貝ケ澪の中の字三番瀬で貝猟をしているので、ただちに貝桁を取り上げたところ、かれらは船橋澪までは五ヵ所の入会場であると主張した。

 しかし、両澪内が入会場でなく、船橋村専有の磯猟場である証拠として、寛保三年(一七四三)小田原町の佃屋市郎兵衛が仕入金を出し、下今井村の猟師権四郎という者が、三番瀬で地引網猟をしたいと申し込んできたとき、当村は金二両弐分を受け取って、三月から九月までの間、毎月後半の十五日を稼がせており、この市郎兵衛と請人・口入人加判の証文が残っている。また、宝暦十三年(一七六三)堀江村の猟師善治郎という者が、三番瀬で猟をして猟具を取り上げられたときの佗び証文もある。このような証拠がある以上、入会場ではない。

○東宇喜多・長島・猫実三ヵ村の申し立て

 船橋澪から西南の方浜川水車橋までは前々より葛西・行徳・深川・芝・品川五ヵ所入会の磯猟場である。船橋村御菜浦は船橋浦より東北に広い磯猟場があり、船橋村一村で進退しており、三番瀬の辺は入会場に相違ない。

 享保年間にも貝ケ澪までは船橋村専用の猟場であると申し立て、堀江・猫実両村と出入に及んだことがある。吟味の結果、船橋澪までは入会にすべしということで、双方の連印の海上絵図面をとりかわし、現在もこの図面を所持している。

 また葛西領の猟師の地引網猟の場割は、先年以来の書付に三番瀬としたためられているし、これまでこの場所で地引網猟をしても舟橋村から文句が出たことはない。

 三番瀬でとれる肥料用のきさごの取り方について、先年出入があり、葛西領七ヵ村より日限を極め代官所へ申し出て、取ることを許された。その後、船橋村が他の御支配になっても、苗代の節、合わせて六日のきさご取りを認められ、葛西領の御支配役所へ申し出ると、船橋村の御支配役所へ通達され、一同採取してきた。きさごに限って入会であるいわれはなく、これまた入会の証拠となろう。

 そのうえ、安永七年に佃島の猟師が葛西・行徳・船橋などの猟師を相手どり、六人引網猟は佃島だけの猟業であるのを、他所の猟師が六人引網猟をしたと申し立てて、紛争となった事件の済口証文に、下総国千葉郡谷津村境より、西は浜川水車橋まで入会であるとしたためられていて、船橋村も連印している以上は、すべて今般の論所は入会に相違ない。

 また同年三番瀬でとれる種蛎を湊・押切・湊新田三ヵ村が採取したことで、堀江村と争論に及んだ事件が起こったが、三番瀬のあたりが、船橋村専用の猟場であるなら、湊ほか二ヵ村で種蛎をとったからといって、堀江村が文句をいうはずはない。ことにそのせつ、御吟味引き合いに、船橋村も召し出されており、もし、船橋村一村の猟場であるなら、その旨を申し立てるべきであるのに、それをしていないのは、入会に相違ないことを示している。

 幕府評定所は双方の申し立てを次のように吟味している。

(イ)享保年間にとりかわしたという絵図面は、確かに双方が連印しているが、沖猟場の境界についてしたためてあるだけで、磯猟場の入会境は記されていない。

(ロ)地引場割の書付は、船橋村が連印していないので、たとえこれまで三番瀬で猟をしていても、入会の証拠にはならない。

(ハ)きさごは、葛西領の村々が日限をきめて採取してきていることは相違ないけれども、きさごだけを、申し出ることになっているのは、かえって入会でない証拠であると船橋村が申し立てている以上は、入会の証拠として採用しがたい。

(ニ)佃島と出入に及んだときの済口証文は、磯猟場境の出入ではなく、ことに谷津村境より浜川水車橋までとあるのは、沖猟・磯猟の境であると、船橋村で申し立てている以上は、これまた入会の証拠にならない。

(ホ)堀江村と湊村外二ヵ村が出入に及んだとき、船橋村が引き合いに召し出されて、船橋村の猟場に堀江村が口をはさむのはおかしいと船橋村から御吟味を願ったけれども、このたびの訴訟以外のことであるので別に願いを出せばとり上げるが、今回はとり上げないといわれたのであって、船橋村が申し立てなかったわけではない。

(ヘ)寛保年間、小田原町の佃屋市郎兵衛から、船橋村がとっておいた証文によると、三番瀬で下今井村の権四郎が地引網猟をしたいとしたためられている。もし入会場なら、このとき船橋村だけが金子を受けとるいわれはない。

(ト)堀江村の善治郎から差し出した書付に、以来三番瀬へ立ち入ってはならないとしたためられている以上は、まったく入会場ではない。

(チ)船橋澪まで入会であるという相手方の申し分は取り上げ難い。

(リ)ご吟味のため召し出された者ども(葛西・行徳・深川・芝・品川の猟師)も相手方同様、入会であると申し立てたが、これも証拠がない以上は信用できない。

 吟味の結果、天明二年正月十三日裁決が下った。それは、「貝ケ澪より東北は、船橋村専用の磯猟場であり、西南は葛西・行徳・深川・芝・品川五ヵ所の入会磯猟場と定める。貝ケ澪を境として、貝猟はもちろん魚猟もする。また船橋澪筋までは五ヶ所の者どもが入会い、魚猟をおこなってもよい(貝猟は禁止)。沖猟場境や、きさごを採ることも、これまで通りに心得ること。岸通り・船つなぎ、船往来はたがいにさし障りのないように注意する。船橋村でとり上げた猟具は返すこと。船橋村は利運に誇らず、以来双方仲良く、再論に及んではならない」というものであった。結局、船橋村の猟場専有権は認められたが、それも貝猟に限られ、魚猟の場合は他猟の入会が許されたのである。沖猟場と磯猟場は明確に区別され、沖猟場は完全な共同猟場であった。この出入に、品川猟師町と大井村御林町も引き合いに召し出され、証文に連印している(船橋漁業史料)。

 また「地誌御調書上」によれば明和七年(一七七〇)十二月、神奈川猟師町・新宿村と相州久良岐郡小柴村との間で漁場をめぐる争論があり、評定所より「先々仕来之通、芝金杉浦より室之木、それより相州浦賀御番所近辺の内、御菜浦は申すに及ばす、外浦付村々共、互いに入会漁猟致すべき旨」裁決があり、ただし小柴村外三一ヵ村は、古来江戸本材木町新肴場付であり、その地先は他村の漁民が入り込んではならないとしている。

 このように、地先浅海の専有権がおおむね認められたのは、江戸内湾の零細な漁業者に、最低限度の生活を保証し、その再生産を可能ならしめるためであったと考えられる。