入会漁業を支障なくおこなうためには、漁法・漁具等の協定を結んでおかなければならない。
享保十七年(一七三二)金杉・本芝・大井御林町・羽田猟師町から大森村・品川猟師町の漁民が、作り藻といって土をまるめて、むしろまたは縄菰(こも)で包んだ上へ箒(ほうき)をたて、この上に長い竹をわたしたものを海中一面に入れて、イカをとるのは網猟の妨害であり、とくにイカを大森と品川の者がとりつくしてしまうほどなのは、迷惑千万であると訴えている。そして大森村は田畑を所持する陸百姓で、漁猟は余暇にやっているのであり、品川猟師町はわれわれと同様の猟師で、つねづね漁猟について話し合い、たがいにさしさわりのないようにしてきたはずなのに、このたびの作り藻の一件は、まったく不実のしかたであると非難している。このように大森村のような磯付村の勢力が次第に強くなり、既成漁村の漁場支配を侵蝕したり、新規の漁法・漁具に関する争論がしばしばおこるようになった。そこで文化十三年(一八一六)六月、武蔵・相模・上総三ヵ国四十四ヵ浦の代表が新興漁村の進出をはばむため神奈川で集会を開き次の三ヵ条を申し合わせた。
一、毎年春、内海の浦方は残らず参会し、取締方を相談すること、もっとも御菜七ヵ浦が年番で参会の廻状を差し出すこと。
一、新規の漁猟は以前から禁止しているが、今後もいいつけを守り、勝手な振舞のないように取計らうこと。
また浦役を勤めず、肥魚(肥料となる雑魚)をとり上げてきた村方へは、もよりの浦方より、以前からの内海浦々のとりきめを通知し、その土地によりしきたりもあろうが、すべて漁猟のことで勝手な振舞のないように取りはからうこと。
一、浦方で申し合わせたことを忘れてしまって、意を用いない村方があったときは、郡中限年番惣代か、もよりの浦方がかけ合い、それでも聞かないときは、一統申し合わせ、その筋に訴え出て、漁猟のさしさわりになることは用捨せずとり計らい、相互に実意をもって諸事申し合わせること。
同時に漁具を三八種類に限定し、新規の漁猟を規制した。これがいわゆる漁具三十八職といわれるもので、近代の内湾漁業法の基礎となった。それらをあげると次の通りである。
一、手繰網 二、縄船猟 三、小網 四、白魚網 五、貝桁 六、貝類巻 七、鵜縄漁 八、歩行網 九、六人網 十、揚繰(あぐり)網 一一、地引網 一二、八田網 一三、あいご網 一四、鯛網 一五、だいこんぼう 一六、〓(いなだ)網 一七、貝藻取 一八、のぞき漁 一九、丈長網 二〇、肥取 二一、敲(たたき)網 二二、張網 二三、鰡(ぼら)網 二四、鮑(あわび)漁 二五、投網(とあみ) 二六、四手網 二七、釣魚 二八、鰻(うなぎ)掻 二九、藻流網 三〇、鰆(さわら)網 三一、海鼠(なまこ)漁 三二、三艘張 三三、小哂網 三四、糖魚流(こませ)網 三五、飛魚網 三六、小貝桁 三七、このしろ網 三八、ころばし網。
このほか、これまでの慣習によって、つぎの一七種の漁具の使用を認めた。これを小職といった。
一、簀引網 二、ずり網 三、尨魚引抜網 四、蛎万牙漁 五、蛎挾漁 六蜆流漁 七、蜊(あさり)熊手漁 八、糖魚漁網 九、さで押網 一〇、不笊漁(下げ) 一一、鰻筒漁 一二、鰻筌漁 一三、鰻抄 一四、栄螺(さざえ)引綱 一五、鰌漁網 一六、ぼっさ縄 一七、海苔桁網
ただし、これらの漁具が使用できるのは漁業専業の浦方だけで、磯付村は落し突・簀引・小曳網の三種に限られていたのである。