以上の申合わせをしても、浦方と磯付村の紛争、浦方間の新規の漁猟をめぐる争いは絶えずおこっている。文政九年(一八二六)十一月、鯛網猟をめぐって御菜八ヵ浦と八ヵ浦以外の相模・武蔵・上総の三十六ヵ浦が対立した。訴訟方三六ヵ村の申し立ては、つぎの通りである。
江戸内湾四十四ヵ浦は漁業専業の村落で、漁業稼方については相互にさしさわりのないよう、新規の企ては文化十三年の議定で禁止されているはずである。ところが今般南品川宿の惣五郎と、神奈川青木町の太兵衛という者が、尾張藩の御用につき、本牧浦沖合で鯛網四張を始めたいと願い出て、代官所から八ヵ浦へさわりがあるかないかを糺されたさい、支障はないと申し上げ、承知してしまったことはまことに心外である。
これに対し、相手方の八ヵ浦・惣五郎と太兵衛・本牧本郷村の言い分はつぎの通りである。
○八ヵ浦の申し立て
惣五郎と太兵衛に鯛網漁業を認可されるようになっては、われわれも三十六ヵ浦と同様、差し障りとなることはいうまでもない。そこで御役所から支障の有無を糺されたときに、訴訟方の浦々へも評議を尽くし、たびたび支障があると申したてたけれども、厳重のご利解につき、仕方なくお受けしたのである。それというのも、太兵衛ほか一人が本牧本郷村の役人方へ、鯛網猟をしたいとたびたび相談を持ちかけて、役人方から、その筋に届けて許されれば、当方はさしつかえないという一札をとり、右の次第を尾張藩の役場で申し立てており、従って八ヵ浦はやむなく、ご利解をお受けするはめになったのであって、けっして当方が望んだわけではない。
○惣五郎と太兵衛の申し立て
私どもの懇意にしている四谷伊賀町の清八という者が、尾張藩役場より鯛漁を仰せつけられ、この清八から私どもに、懇意でもあり、海辺に住居している関係上、ぜひ浦方へかけ合ってほしいと頼まれた。そこで本牧本郷村の役人たちへかけ合ったところ、鯛網漁業は、八ヵ浦が御菜献上の浦方だから、この八ヵ浦とよく相談すれば、さしさわりはないだろうといって、一札入れてくれた。この事情を尾州役場へ申し上げて、御用をお引受けしたのである。
○本牧本郷村役人の申し立て
新規の企ては容易にしてはならないと、四十四ヵ浦の議定にあるのを知らないわけではないが、惣五郎と太兵衛は尾張藩の御用で、あらたに鯛網をもくろみ、藩の役場から御沙汰もあり、そのうえ八ヵ浦が支配役所から故障等を糺されたときに、外浦と評議の上、問題がなければ、しいてのさしさわりにもなるまいと判断して、故障はないと申し上げている。ただそのせつ、当村役人から八ヵ浦は御菜肴献上のための鯛網を現在中止しているけれども、今後八ヵ浦で熟談し、尾張藩の許可が得られれば、渡世にもなるので、鯛網漁業の仲間に加入したいとの書付を太兵衛へ入れ置いたため、八ヵ浦も故障はないと心得違いをしたのである。
それぞれの言い分に微妙な差はあるが、本牧本郷村の村役人が、太兵衛らに与えた一札によって、八ヵ浦が支障を申し立てなかったのである。翌文政十年(一八二七)四月示談が成立した。その済口証文によると、本牧本郷村役人から、心得違いの書付をほかの浦々へ相談もせず、太兵衛方へ差し入れたことは、まったく取計らい方が不行届であったと、三十六ヵ浦から訴えられていた八ヵ浦へ厚く詑びを入れ、八ヵ浦も、書付によって支障はないと思っても、神奈川宿で四十四ヵ浦が集まって、取締方を申し合わせたからには、本牧本郷村からどのようにいわれても、ほかの浦浦と相談してから、支配役所へ申し立てるべき筋であり、また惣五郎と太兵衛が猟師でもないのに、願いを許可したことはよろしくないということで、惣五郎と太兵衛は訴訟方へ厚く挨拶におよび、そのほかの者も、奉行所へ対し恐れ入る次第であるといっている。そして今後は八ヵ浦の議定の通り、こぎかつら網という鯛網漁業はおこなわないこと、新規の漁業を企てないこと、四十四ヵ浦の議定を守ることを約束している。