天保十一年(一八四〇)には、御菜八ヵ浦と磯付十八ヵ村の間に紛争が生じている。磯付十八ヵ村とは相模国橘樹郡小田村・潮田村・菅沢村・東小安村・西小安村・後田村・下新田村・大島村・池上新田・稲荷新田・川中島村・大師河原村・武蔵国荏原郡糀谷村・東大森村・西大森村・北大森村・不入斗村・羽田村の諸村である。磯付村は他村・他浦へ入り込まず、肥料用の漁獲も落突・簀引・黒子曳の三種に限り、それも白洲のみで、藻通では一切禁止され、貝類も歩行で採り、船などは使用できず、とりあげた魚貝類は田畑の肥料と自家の食用にするだけで、販売したり、仲買・問屋、また江戸方面へ廻すことは禁じられていた。この規定を無視して海面稼ぎをしたことで、八ヵ浦から訴えられたのである。磯付村のうち大森村は、古くから漁業が盛んで、元禄年間には伊奈半左衛門から、船印の幟を下賜されており、運上金や船役銭も納め、将軍が六郷・品川筋に御成のときは、魚猟上覧御用を勤めている。寛政年間の葛西筋水難にさいしては、救助船の御用を勤め、あたらしい艫を一四挺頂戴している。浦高札が破損したときにも分担金を出していると、「無役」でないことを申し立てている。また正徳年間におこった大森の漁場をめぐる訴訟事件の裁許状に、網猟の儀は従来通り入会となせとしたためられており(八四五ページ参照)安永年間の佃島の猟師たちの六人網出入の済口証文にも、大森村がむかしから漁猟をしてきたことがはっきり記されていて、当村の漁業の稼方は、すでにわかっているはずなのに、いまになって御菜八ヵ浦に限って差し障りがあるなどと、無理難題を申しかけることは、まことに心得がたい次第であると弁じている。
この出入は天保十三年(一八四二)十一月にいたり、示談となり、済口証文をとりかわした。その内容は次の通りである。
(イ) 三大森村は、むかしから漁業をおこなってきたことがはっきりしているので、流し網猟運上として納めている分を割りつけて、表通りは六九文の船役永を納め、船印の幟を持っている猟師は、一八艘ととりきめ、御菜納方浦入用の助け合いについては、大井御林町の差配を受けること。
(ロ) 猟船の数は、羽田村は四〇艘、鈴木新田は一五艘、東西子安村は八七艘と定め、これ以上の船を使用しないこと。
(ハ) 船目印は八ヵ浦で焼極印をこしらえておき、焼印をするときは八ヵ浦と大森村・子安村が立ち会い、双方疑惑のないように箱に入れて封印し、親浦へ預けておくこと。
(ニ) 浦方にかかわることは万事八ヵ浦と相談の上取計らい、勝手な振舞はしないこと。
(ホ) 不入斗村より東西子安村まで磯付十八ヵ村は村下通りで、貝類・肥料用の藻草をとることが許される。落突・簀曳・黒子曳の三種の漁具を使用しての魚獲は白洲の内だけで、藻通りでは一切禁止する。ただし黒子曳網は猟師たちが困窮を訴えているので、一八ヵ村全部で網数五五だけ許すことにするから、村の大小に応じて割り合うように。これ以上網をふやさないよう、役人どもはよく取り締まること。
(ヘ) 村々の者が魚貝類をいささか代替することは、しきたり通り享保十五年(一七三〇)の御裁許をかたく守ること。
最後の(ヘ)については享保十五年の裁許の内容は不明だが、とり上げた魚貝類を、少々他の生活必需品と交換する程度なら許可したのであろう。