幕末の漁業

855 ~ 856

幕末の品川台場の建設は、品川浦の漁業に大きな打撃を与えた。従来の漁場はだんだん洲高となり、潮の流れに変化をきたし、魚が沖合に移動して、なかにはまったくとれなくなってしまう魚もでてきた。漁民たちは漁具等を改良して、最悪の状況に対処したが、新規の漁具の使用は、文化十三年(一八一六)の協定で禁じられており、品川浦に対する他浦の風当たりはきびしかった。

 いい伝えでは、沖合の深いところで使用するケタ網を改良して、中程度の深さに適当なエビケタ網を作り、シバエビ等を採ったが、他浦から訴えられて、使用を禁止され、これに抗議して漁民の女房たちが、町奉行所に直訴するという事件(門訴事件)が起こった。元治元年(一八六四)五月一日のことといわれている。結果は、品川某寺の住職が事件を収拾し、女房たちにはおとがめもなく、浦々一帯にエビケタ網の使用が許されたという。この事件を題材にした浪曲も作られたというが、史料が乏しく、事実を立証することはできない。ただ新規の漁具をめぐって、品川浦と他浦が対立していたことは、文久二年(一八六二)十二月、内湾浦々が古来より使用の猟具三十八職を書き上げた史料に、「品川猟師町にては、小桁と唱ひ候猟具書上度旨 談有之候得共、右者新規猟具にて、私共浦々にては更存不申、依之前書猟師町は停書にいたし、私共連印を以此段奉申上候」とあるのをみてもわかる。文中の「小桁」の一種がエビケタである。このあと、エビケタをはじめとする小桁の使用をめぐる紛争が、遂に「門訴事件」にまで発展したと推定することは容易であろう。

 明治元年(一八六八)閏四月、品川浦と大井村の名主が、海軍総督大原前待従の高輪の役所に呼び出されて、両浦は数年猟業の儀につき出入に及び、穏やかでないが、双方熟談の上、以来再論致すまじき旨の請書を出させられている。しかし、同年十一月には芝金杉の者が、差し止められている猟具を用いて漁業をしたかどで、大井村から訴えられており、漁場・漁具をめぐる紛争は、ついに絶える事がなかったようである。