漁民らがとり上げた魚貝類は、一部は御菜肴として献上し、一部は自家の食料に残して、あとの大部分は問屋や仲買人の手を経て売りさばかれた。
享保五年(一七二〇)五月、幕府は金杉ほか四ヵ浦に、魚は一村限に売切るのか、または二、三ヵ村に相対次第売渡すのかを尋ねているが、これに対して、芝金杉町・本芝町・品川猟師町・御林町は小猟で、網職相応に問屋から仕入金をかりうけ、羽田猟師町は地引網・鵜縄網・小あぐり等を使ってイワシをとるが、このうち地引網一帖につき、金二百両ほどずつ問屋から前借をする。品川猟師町・御林町・羽田猟師町の三ヵ村は、江戸小田原町・芝金杉橋・本芝の三ヵ所の問屋へ、魚をとりあげ次第毎日残らず送り、問屋方から仕切をとって、魚の値段をつけておき、年の暮に前借金と差引勘定をする。外売(ほかうり)等は五ヵ村ともしないと答えている(資二六九号)。
ここで述べられている販売方法は、問屋仕込み(仕入れ)制度といわれる方法である。問屋が漁業生産に必要な資金・資材を、生産者に前貸しし、かわりに漁獲物をすべて買い取るのである。江戸中期以降、広範にみられる方法で、問屋は商品を安く確保することができたが、生産者は問屋の支配を強く受ける形となった。
享保十九年(一七三四)十一月、金杉・本芝・品川三ヵ浦が臨時の御菜肴御用の免除を願った文面に、「近年は江戸前海上小漁ニ御座候て、仕入請申候問屋共ニも損金掛申候ニ付、古網修覆等もいたし呉不申、段々問屋等も離れ申候」とある。問屋から仕入をうち切られると、再生産は不可能になってしまうのである。こうして品川浦・御林浦でとれた魚は大部分、芝金杉・本芝の魚問屋で売りさばかれた。地元では天保十四年(一八四三)の品川宿明細書上帳(資一七二号)によると、南品川一丁目の通りに朝市が立って、猟師町や御林町でとり上げた魚を販売した。猟師と魚商人を兼ねる者も次第に増加していったものと推定される。