(1) 海苔養殖業の創始

858 ~ 861

 江戸時代中期以降、全国各地で特産物が生産されるようになったが、江戸の特産物として名高いのは浅草海苔であった。しかしその産地は品川で、浅草で販売したから浅草海苔と呼ばれたといわれている。品川で採って浅草で製造したという説、品川で採って製造し、浅草で販売したという説などがある。

 『御府内備考』に記載されている、浅草の海苔屋永楽屋庄右衛門家蔵の『浅草海苔由来記』によると、

天慶年間(九三八~九四六)平公雅という人がいて、かねてから浅草寺の観音菩薩を信仰していたが、武蔵守に任ぜられたので、寺の諸堂を再興して、寺はますます栄えるようになった。ある夜、公雅の夢枕に観音が現われて、「われ汝の信仰をめでて一徳を授けよう、宮戸川(浅草川)の沖に、黒・赤・青の三つの海苔が生じている。これは法身・般若・解脱の三徳である。これを食べれば現世には病を治し、武運長久にして家栄え、来世は永く三毒煩悩の悪縁を転じ、仏縁道に至るであろう」と告げた。翌日、公雅が小船で、お告げの場所へ行ってみると、まさしく三種の海苔が生えていた。それを採って家に帰り、食べてみると大層美味で、香りは栴檀(せんだん)香木のようであった。多くの人が食べるようになって、海苔は年ごとにたくさん厚く生ずるようになった。そこで近くの民家では、これを採って清水にさらし、一尺平方の簀(す)につけて乾し、諸国にひろめて渡世する者が多くなった。人々は、浅草観音の霊験によって生えたものなので、浅草海苔と呼んだ。幾百年を経て、元禄十六年(一七〇三)江戸に大地震があって、海陸の様子がすっかり変わってしまい、海苔も絶滅してしまった。ところが翌宝永元年(一七〇四)二月、大水が出たときに、浅草川から楢(なら)の木の小枝が流れて、品川・大森沖の益木(まさき)ケ瀬というところの洲にとどまって、生木の苗のように根を埋めた。


第201図 浅草海苔の図(「東海道名所図会」)

 その年の冬至のころになって、黒色の海苔がその枝に生じ、寒くなるに従って成長した。里人が採って食べてみると、観音のお告げの名草とすこしも違わず、味わいも勝れていた。そこで翌年からその付近にソダを切り建てておくと、海苔は沢山はえた。そして里人はこれをとり、売買して渡世することとなったというのである。観音のご利益うんぬんは別としてこの伝説には真実も含まれていると思われる。古くは海が深く入り込んでいて浅草辺でも天然産の海苔がとれたに違いないのである。それを干海苔にして、人の集まる浅草寺門前で売ったのだろう。やがて浅草で採れなくなると、生海苔を葛西や品川からとりよせて、浅草で製造し販売したのであろう。さらに江戸中期以降品川で海苔の養殖が始まると、品川・大森辺で加工したものが浅草に送られ、浅草海苔として売られるようになったのである。其角(きかく)の『焦尾琴』(元禄十四年刊)に「行水や何にとどまる海苔の味 其角」「雨雲や簀に干海苔の片明り 文士」の句があり、享保十八年刊の『去来吟』に「流るるやこれも世渡る橋場(浅草橋場町)海苔 祗空」の句があるのをみても、元禄・享保ころまでは、浅草で盛んに海苔の製造がおこなわれていたことがわかる。

 ともあれ海苔が大量に生産されるようになったのは品川で麁朶(そだ)ひび立てによる養殖方法が工夫されてからである。品川浦は御菜肴を献上する御菜浦で、(八三六ページ参照)魚をかこっておく活簀(いけす)を楢や雑木の枝でつくろったが、この麁朶(そだ)を日々網麁朶(ひびあみそだ)といった。これは日々肴を献上することからついた名前だという。この活簀に海苔がはえたのをみて、追々麁朶を建てて、これに付着する海苔を採取することが始まり、ひび麁朶といわれるようになった(日々網は簀立に類する漁具の一種で、これに海苔が付着したという説もある)。延宝ごろのことといわれている。その後、ほかの村方でも麁朶を建てて、海苔の養殖がひろまっていたが、大井御林浦では、元禄・正徳のころに始まったといっている(資一三四号)。