品川にはじまった海苔の養殖は江戸中期以降、しだいに産地がひろがり、十九世紀初頭(文化・文政期)には、南品川宿・同猟師町・品川寺門前・海晏寺門前・妙国寺門前・大井村(以上品川区内)・不入斗村・東大森村・北大森村・西大森村・糀谷村の一一ヵ町村で海苔養殖がおこなわれるようになった。さらに羽田村にも及び(大森村をはじめとする村々の反対で中断八七七ページ参照)また江戸湾対岸の上総国に普及したのもこのころであった(荒居英次『近世漁村史の研究』第一部第六章「上総における海苔株の形成と崩壊」)。
海苔養殖が盛んになるにつれて、幕府は御膳海苔の献上と、海苔運上とを命じた。海苔運上は延享三年(一七四六)から賦課され、はじめは稼人の軒別であったが、宝暦七年(一七五七)から養殖場を、長さ五〇間・横三〇間を一ヵ所として区画した箇所割になった。
宝暦七年当時、大井村・海晏寺門前・品川寺門前・南品川宿四ヵ町村の海苔稼ぎをしている家数は二八一軒で、人数は八四三人(男四五四人・女三八九人)である(『品川町史』中巻三三六ページ)。海苔養殖業は一軒あたり三人の家内労働力で営まれていたことになる。同年のひび箇所数は東大森村・北大森村・西大森村・南品川猟師町・不入斗村・大井村・海晏寺門前・品川寺門前・南品川宿九ヵ村合計二四ヵ所七分五厘であるが、このうち三大森村が一五ヵ所、大井村が四ヵ所で、品川地区はわずかである。その後、文化十年(一八一三)にいたり、運上増徴をはかる幕府は、田畑における検地ともいうべき、海苔養殖場の測量をおこない、これによって数多のひび箇所が打ち出された。第50表で示した通り、九ヵ村合計で一四五ヵ所九分三厘一毛に達し、宝暦七年時の約五・九倍である。これは宝暦から五〇年あまりの間に、海苔養殖業が急速に伸びたことをあらわしている。
村名 | 宝暦7年 | 文化10年 |
---|---|---|
箇所 分厘 | 箇所分 厘毛 | |
東大森村 | 6 | 32.0 7 1 |
北大森村 | 5 | 26.7 2 5 |
西大森村 | 4 | 21.3 8 0 |
不入斗村 | 2.5 | 3.7 4 5 |
大井村 | 4 | 34.7 6 5 |
海晏寺門前 | 1 | 12.6 4 1 |
品川寺門前 | 0.5 | |
南品川宿 | 0.7 5 | 14.6 0 4 |
同猟師町 | 1 | |
計 | 24.7 5 | 145.9 3 1 |
天保九年(一八三八)の「書上」によると、海苔稼ぎをしているものは三大森村・大井村・海晏寺門前・品川寺門前・南品川宿・同猟師町八ヵ町村合計七六五人で、このうち海苔株を持っているものは六八八人、無株の小作人は七七人である。課税単位が軒別から箇所割になって、本来共有の地先海面が稼人の所有となり、海苔株が形成されていったのであるが、なかには資金不足で、海苔株を抵当にして借金し、返済できずに無株の小作人となるものがでてきたのである。
またこの人数のうちには、稼人の家内労働力は含まれていないものと考えられる。さきに示した宝暦七年の大井村ほか三ヵ村の人数は、八四三人で、男女別の記載もある。天保九年の大井村ほか三ヵ村の稼人人数は第51表でわかるように、無株小作人も含めて二六〇人である。養殖場の拡大にともなって、じっさいの労働力は増加こそすれ、減少することは考えられない。従ってこの稼人人数は、宝暦七年の家数二八一に相当するのではないかと思われる。そこで天保九年の総家数に対する海苔株稼人の比率を求めてみると、三一%になった。全戸数の約三分の一が海苔稼ぎをしていた勘定になる。村別では南品川猟師町が七六・六%ともっとも高い比率を示している。これは猟師の多くが海苔の養殖をおこなっていたことをあらわすものである。ほかに大森村や大井村の比率も高くなっている。
村名 | 稼人人数 | 家数 | 人口 | 比率(海苔株 稼人/家数) |
|
---|---|---|---|---|---|
海苔株稼人 | 無株小作稼人 | ||||
% | |||||
東大森村 | 383 | 40 | 905 | 5,003 | 42.3 |
北大森村 | |||||
西大森村 | |||||
大井村 | 188 | 37 | 547 | 2,441 | 34.3 |
海晏寺門前 | 24 | 88 | 301 | 27.2 | |
品川寺門前 | 8 | 54 | 240 | 14.8 | |
南品川宿 | 3 | 449 | 1,796 | 0.6 | |
同猟師町 | 82 | 107 | 447 | 76.6 | |
計 | 688 | 77 | 2,150 | 10,196 | 31 |
765 |
以上海苔養殖の発展過程を概観したが、次項以下においては、養殖の方法・実態・御膳海苔の献上・海苔運上等を詳しくみることにしよう。