海苔は生海苔のまま販売されることもあるが、だいたいは干海苔にして販売された。宝暦七年(一七五七)の書上によると、南品川宿ほか三ヵ村の干海苔は、浅草並木町の問屋四郎左衛門方に売渡し、同人方へ百文につき二文ずつの世話代を支払っている。問屋に直接売渡すほか、中買の者へも売り、往還ばたのものは見世先でも売っている。大方は干海苔にして売るが、売買値段が高いときは、生海苔のまま売ることもあると述べている。十一月中旬ころの新海苔は値段がよく生海苔一斤につき二〇〇文くらいで卸すが、十一月下旬から十二月上旬になると、一升五〇文くらいで売り出された。干海苔は寛政十年(一七九八)の記録によると一枚二、三文から一〇文くらいで売りさばかれた。宝暦七年(一七五七)の「書上」によると、南品川宿ほか三ヵ村で製造した干海苔六〇万六九六〇枚の売上高は六〇二両余りとなっている。必要経費三六〇両あまりを差引くと純益は二四一両余となる。ひび箇所の増加した文化十年(一八一三)の記録によると、南品川宿外八ヵ村の売上高はおよそ五万両とあり、海苔養殖業の急速な発展ぶりがうかがわれる。